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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 1

今回から2021社会科学部編が始まります。このnoteを始めた時、最初にやったのが2020年社会科学部でした。

2021年編は最後に社学をやりたいと思います。昼夜開講制から20年以上、昼間部へ移行して10年以上、躍進する社学にかつての「本キャンのお荷物」感はなくなったでしょうか。

さて、全問テーマ史、全問選択だった社学の日本史ですが、今年はテーマ史以外も出題され、短めですが論述問題も出題されました。

※大学公式ページで問題を確認して下さい。

※東進データベースは要登録です。

※この連載では、「教科書」は山川出版社の詳説日本史B(山川 日B309)を使用します。また、「用語集」も山川出版社の『日本史用語集』を使用します。特に断りなく「教科書」「用語集」とある場合はこれらをさします。また、入試問題や「教科書」の内容に関してはリンク先の問題や「教科書」でご確認くださいますようお願いします。

大問Ⅰは公共事業をテーマに古墳造営から現代のインフラ整備までの長いスパンで問題が出題されています。

◎問1 古墳に関する記述として、不適切なもの2つ

イ 人物埴輪・動物埴輪は形象埴輪と呼ばれる。
ロ 大仙陵古墳の築造には、約16年の歳月を要したと試算されている。
ハ 6世紀の古墳時代後期になると、横穴式の埋蔵施設にかわり、竪穴式石室が一般化した。
二 6世紀末から7世紀初めになると、前方後円墳はほとんどみられなくなった。
ホ 前方後円墳の造営は近畿中央部に集中しており、関東以北や九州には存在しない。

古墳造営に関わる問題です。巨大古墳の造営は、政治力・経済力の証明でもありました。古墳時代は3世紀中ごろから7世紀で、前期(3世紀中頃から4世紀後半)、中期(4世紀後半から5世紀末)、後期(6世紀から7世紀)に区分されています。後期の後半は終末期とも呼ばれ、飛鳥時代に入っています。

それぞれの選択肢を確認しましょう。

の形象埴輪は正しい説明です。古墳の墳丘上に並べられた埴輪は、「前期には円筒埴輪や家形埴輪」(24頁)でしたが、6世紀の古墳時代後期になると「人物埴輪・動物埴輪などの形象埴輪がさかんに用いられるように」(28頁)なりました。

の大仙陵古墳についても正しい説明です。中期に造営された最大規模の前方後円墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)は大阪府堺市東部に展開する百舌鳥古墳群の盟主的位置を占めます。

① その築造には、全盛期で1日当たり2000人が動員されたとして、延べ680万人の人員と、15年8か月の期間が必要だったと計算されている。(25頁 脚注①)

の石室の文は不適切です。竪穴式石室から横穴式になったという順序が正しく、ハの説明は順序が逆です。

 埋蔵施設には、前期・中期は木棺や石棺を竪穴式石室におさめたものや棺を粘土でおおった粘土槨など竪穴形態のものが営まれ、後期になると横穴式石室が多くなる。(24頁)

横穴式石室は棺をおく玄室とそれへつながる羨道があり、追葬が可能でした。

正しい文です。「6世紀末から7世紀初めになると、各地の有力な首長たちが営んでいた前方後円墳の造営が終わ」(31頁)ります。各地の首長たちは方墳や円墳を営むようになります。この時期の古墳は終末期古墳とも呼ばれ、「千葉県龍角寺岩屋古墳(方墳、一辺80m)や栃木県壬生車塚古墳(円墳、径80m)」などが大規模なもので、東国の国造が営んだと思われます。

の説明は不適切です。前方後円墳は近畿中央部にとどまらず関東から九州まで広く展開します。地方の前方後円墳の造営者はヤマト政権と関連の深い主張連合を形成していたと考えられます。

 中期の巨大な前方後円墳は近畿中央部だけでなく、群馬県(上毛野かみつけの)・京都府北部(丹後)・岡山県(吉備)・宮崎県(日向)などにもみられる。とくに岡山県の造山古墳は墳丘の長さが360mもあり、日本列島の古墳の中で第4位の規模をもつ。(25頁)


◎問2 仏教信仰に基づく造寺・造仏、土木事業に関して 不適切1つ

イ 律令制度のもとで困窮した農民のなかには、都の造営工事現場から逃亡する者もいた。
ロ 東大寺の大仏造立事業は恭仁京、難波京など転々とし、最終的には紫香楽宮で完成した。
ハ 光明皇后は、悲田院や施薬院を設け、孤児や病人を救った。
二 行基は、灌漑施設の整備などの社会事業に携わった。
ホ 道慈は、平城京に大安寺を建立した。

奈良時代の造寺・造仏・土木事業に関する問題です。

の光明皇后、行基の社会事業に関しては、2021年の人間科学部でも出題されています。

いずれも正しい文です。

不適切な選択肢は、です。大仏造立が「最終的に紫香楽宮で完成」したとするならば、東大寺も大仏も紫香楽宮にあることになっていまいます。紫香楽宮は近江国(現在の滋賀県)ですから、そんなはずはないですね。

740(天平12)年に九州で藤原広嗣が反乱をおこすと、聖武天皇は恭仁京・難波宮・紫香楽宮と都を転々とし、745(天平17)年に平城京に戻ります。都を転々とした理由はいくつかあるでしょうが、藤原広嗣と呼応して平城京内で反乱がおこることを警戒したのが大きな理由でしょう。

743(天平15)年には近江の紫香楽宮で大仏造立の詔を出した。745(天平17)年に平城京に戻ると、大仏造立は奈良で続けられ、752(天平勝宝4)年、聖武天皇の娘である孝謙天皇の時に、大仏の開眼供養の儀式が盛大におこなわれた。(50頁)

正しい文でした。

困窮した農民のなかには「口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、都の造営工事現場などから逃亡して、地方豪族のもとに身を寄せるもの」(54頁)が増えました。

また、平城京に大安寺を建立したのは道慈です。

入唐して三論宗を伝えた道慈も大安寺建立などの事業に活躍した。(56頁)


今回は2問だけです。

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