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【トラペジウム感想#8】アイドル・東ゆうの到達点【ネタバレあり】

 え、読むんですか?

 2万字ありますよ???

 













そうですか。。。








では始めます。








 筆者はトラペジウムを10周し、小説版と映画のノベライズ版を無限周回しています。感想を書くのは8回目です。明日11周目をキメに行く予定です。



 助けてください。





はじめに

 もう感想書くのやめたい。つらい。苦しい。

 他の方の感想読んだら止まるかな~と思ってnoteとXを漁ってたんだけど、結果は逆効果で余計止まらなくなった。

 きっかけはこちらの記事↓


逆説の光、アイドルの条件 「トラペジウム」について|まつきりん (note.com)


 す、す、すげ~~~~~!!!!!
 何だこの言語化能力。
 恐らく映画を一回視聴しただけでこの境地に到達している。恐ろしい。同じ人間とは思えない。私の記事は読まなくていいから↑は必ず読んでほしい。本当にすごい。(プロフ見て納得した。道理で…)

 で、こちらの記事を熟読のうえ、9周目の鑑賞をキメてきました6/22(論に煮詰まって10周目キメた6/26)。

 すごく新鮮だった。見慣れた映画とは思えなかった。なんなら過去一楽しめた。いい感想は批評であり、いい批評は弁証法の実践そのものである。創作物を(作者すら意図しないレベルの)より高次元の観点へと止揚してくれる。そういう力がある。

 というわけで、新たに追加された観点も含めて、例のごとく感想を書きまくっていきます。



一方通行なコミュニケーション その違和感と必然性

 私が初見時からずっと抱えていてついに自力では解消できなかった違和感がひとつ氷解したので、まずはその話。

 自分の過去ポストを見返したところ、スタンドバイミーの感想が出てきた。トラペジウム三回目視聴直後、私が壊れて感想出力マシーンと化しているのを見た先輩(トラペジウム映画既視聴勢)が勧めてきたのを即刻観たときのものだ。原作小説は読んでいて話の筋は覚えていたが、映画は観ていなかった。いずれも原作小説あり、メインキャストが子供四人組、冒険(?)要素あり、気まずい系青春モノ、など何かと共通項が多く、勧められた理由も何となく察しがついた(まあ、トラペジウムはのっけから友人を方角で記号化し、友情を育む描写をダイジェストで処理しているあたり、友情も青春も描くつもりはないはずで、別枠とは思うが)。

 で、視聴直後のポスト(鍵付けてるので直貼り)。

観ました。人間同士の双方向的な交流に感動しました。

@_knfrw 午後10:34 · 2024年5月26日

 わざわざ人間同士の「双方向的な」交流、と強調しているあたり(人間同士の交流が双方向的じゃないことなんてあります?)、この感想には「トラペジウムにはそれがない」という省略された一節が付きまとう。この時点で、トラペジウム世界(特に東の周辺)に横溢する一方通行なコミュニケーションへの違和感は既にあったのだろう。当時の感想#3を読み返したら、さっちゃんの東への唐突な懐きっぷりを何とか解釈しようと試み、そして挫折していた。
 東を取り巻く人間関係に双方向的な側面はほぼない。東の人格は周辺世界から切り離されている。ある方向に影響することはあっても、相互に影響し合うことはない。周囲から向けられる視線の質に無関心で、東の内面が外界から直接影響される描写はほぼない(近しい友人だろうが遠くのファンだろうが同じ。三人から向けられる友情に最後まで気づかず、謝罪のあと友情を向け返す描写も空虚。SNSのリアクション数は確認するがコメントの中身は見ない。ファンレターは裏面の本文を読まず、他のメンバーに比べて枚数が少ないことにため息を漏らすだけ)。
 そんな振る舞いをしていたら周囲に見限られて孤立しそうなものだが、どういうわけか、東は作中ずっと人間関係に恵まれている。東が一貫して東西南北のメンバーに友情を感じていないにも関わらず、東のエゴに巻き込まれ各々の理由で傷ついたはずの女の子たちは「いつの間にか」東に救済されていて、すべてを赦し(彼女らはそもそも罪とすら思っていないだろうが…)剰え感謝すらしている。写真撮影以前に東との交流がほぼゼロだったはずのさっちゃんは、凄まじい初速で「ひとりでに」東に懐いて自らの夢を東と共有するところまでいっている。東の周辺では、相対する他者と関係する過程を素通りし、完成品の感情だけが唐突に提示され、東の胸糞悪い心中にも関わらず、それらが悉く東を利する。これらの不整合には初見以降、ずっと違和感があった。

 こういった展開の連続を「ご都合主義」「脚本の失敗」とし、トラペジウムを駄作と酷評する人がいるのはすごく理解できる。私も論理構築の失敗という形で間接的に「物語の展開に説得力がない」と繰り返し主張しているわけで、到達点は彼らと同じなのだから。

 だが、これらの唐突さは恐らく意図されたものである。制作陣によって作中にちりばめられた、計算し尽くされた飛躍である。物語は、飛躍しなければならない。唐突に結果が提示されるのでなければならない。東の人格は、因果と論理で説明がついてはならないのだ。トラペジウムは東というアイドルの物語なのだから。

アイドルは他人を救おうとして救うのではない。アイドルの輝きに触れたファンの側が勝手に救われるのでなければならない。アイドルというイデオロギーにおいて、「意図」と「結果」が食い違うことはむしろ当然なのだ。アイドルは自分の夢のためだけに歌い、踊るからこそ光る。そして、その輝きは本人の意図とはまったく関係ないところで、他者に救いをもたらすのである。

逆説の光、アイドルの条件 「トラペジウム」について|まつきりん (note.com)


 これが答え。引用元の、アイドルというイデオロギーが不可分に伴う「意図」と「結果」の乖離についての論考と、そのずれこそが本作のストーリーを成立させているという主張に私は完全に同意する。

「意図」と「結果」のずれとは、則ち人間相互の交流における因果律の否定である。先述の通り、東を端点に持つ人間関係を支配する法則は奇妙である。ユークリッド幾何に馴染んだ人類が初めて非ユークリッド幾何に相対したときのように、直感的な理解を拒絶する。
 だから、(ここ一か月間の私のように)狭い歩幅で論理を詰めて東のぶっ飛んだコミュニケーションを解析し、「そうはならんやろ…」と呻いている限り、展開に腹落ちすることは永遠にないだろう。作品の構造を理解するには、一旦視座を遠方に引き剥がし、作中に蔓延る違和感(=ずれ)を公理として抽出し、受容する必要があったのだ。

 一点補足。アイドルが自らのためだけに歌い踊るエゴイスティックな存在である点を認めたうえで、それに相対するファンもまた、同種のエゴに満ちている点は指摘しておきたい。勝手に幻想を見出し、勝手に救済される。勝手に期待し、勝手に失望する。他者の人格を軽視し、ろくに知ろうともしないまま雑に消費し、結果だけを無邪気に開示することが、暴力でなくてなんだろうか(写真流出後のSNS上での美嘉の扱いから、制作陣はこの暴力の双方向性に自覚的と思われる。アンチの攻撃的な言動は言うまでもないが、ファンの無責任かつ空虚な擁護ポストも同程度に醜悪に描かれている)。
 とはいえ、アイドルとファンは一種の共犯関係にある。アイドルは入念にデザインされた自身の断面=輝きを提供し、ファンは輝きに触れ、独自に解釈し、勝手に祈り、救いを見出す。ファンは無数の行動の中からアイドルの人となりを知りもしないで好き放題言うこと(くるみが反感を示すポイント)を選び取っているのではなく、他ならぬアイドル自身によって、それ以外の交流の通路を閉ざされているのだ。ファンをひとりよがりな解釈の迷宮に誘ったのはアイドルの方である(だから、くるみと美嘉が傷ついてしまったのは、コミュニケーションにおけるエゴの介入を受容できなかったことに起因する。彼女らは東の策略と大人の都合で一時的にアイドルにされてしまうが、本来アイドルとしては生きられない人格だった。エゴはアイドルの世界では潤滑油たりうるが、彼女らには理解できないだろう。身近なごく少数の親しい人間に囲まれて生きた普通の女の子にとって、エゴは単なる猛毒である。エゴを受け取ることには当然耐えられないし、意図せず自分がエゴを拡散する側になってしまったときの負い目も相当なものがあるだろう。くるみが述懐のなかで恐怖を覚えたとした点はまさにここである)。
 奇妙なことに、エゴに満ちた世界であれど、いや、エゴに満ちていればこそ、誰も傷つかない仕組みになっている。登場人物は全員幸福ですらある。アイドルは歌って踊って輝けてハッピー、ファンは輝きに救済されてハッピー。どこにも被害者はいない。
 トラペジウムもそう語る。アイドルとは、ファンとは、そういうものだ、と。徹底的に自己完結したエゴの孤独な応酬と、その結果生み出される逆説的なユートピアこそが、アイドルという現象の本質なのだ、と。


初めて見た時から、光っていました。

 トラペジウムは作中一貫して、アイドルという現象を執拗に、東に端点を置く無数のベクトルで反復し続けている。実際、先述した因果の乖離を伴っているのは、狙い澄ましたかのように東を介する人間関係だけである。
 東を取り巻く特異な法則は、東の人格に帰すべき属性というより、物語の特異点としての宿命のように思われる。東は一貫して、作中唯一の「アイドルという現象」として振舞う。そう、東ゆうはアイドルである。なんなら、物語の始まった瞬間から、ずっと。

 15歳の東は作中のほとんどの期間、職業的なアイドルではない。だが、特定の他者との関係において東が果たしている役割は、アイドルそのものである。東は周囲を顧みず、自らのエゴのみに従って行動する。東西南北のメンバーは東のエゴに巻き込まれるが、いつの間にか東に幻想を見出し、ひとりでに救済されている。東西南北は(少なくとも東以外の三人から見れば)対等な友人であると同時に、東というアイドルに感化され傘下に集った三人のファンでもある。
 古賀が自身のキャリアを賭けたチャンスの命運をよりによって取材で一回会っただけの素人女子高生に託すことの非現実味も、東=アイドルの輝きに触れたファンの行動の非合理さと重ねれば、さほど無理なく受容できる。古賀が伊丹老人経由で連絡を取ったのは東ひとりである。東が長期にわたり電話を黙殺している間に(伊丹老人「ああ東さん、やっと出てくれた」)他のメンバーに連絡がいって、そこから東に間接的に通知が行く、というルートだって考えられるが、そうはなっていない。古賀が連絡するのは、他の誰でもなく、東でなければならなかったのだ。高台で企画の打診をするとき、古賀が名を呼んだのは東だけ、企画書を手渡したのは東だけ、見つめているのも東ただひとりである。
 アイドルと関係する人物について、内面の説得力を検討するのは空虚だ。先に述べた通り、救済には「勝手に」もたらされる。因果関係も合理性もあったものではないのだから。

 作品が描く悲劇は、アイドルではないはずの普通の女の子が、アイドルとして生きることを強制されてしまったことにある。そして、アイドルとしてしか生きられないはずの東が、普通の女の子として生き、普通の人間と関わり、普通の人間として言動を評価されてしまったことにある。母親の「そういうところも、そうじゃないところもあるよ」という言葉は、東を解釈する二つの世界の存在を示唆している。アイドルの世界と、普通の人の世界。アイドルがファンと相対するとき、重要なのはファンにもたらされる「結果」であって、アイドルの「意図」などどうでもいいはずだ(そもそも「意図」と切り離された場所で勝手に「結果」がもたらされるのだから、因果を辿ることに意味などない)。蘭子は、東が「南さん」と綽名をつけたことを喜んでいる。アイドルの世界であれば、そこで話は終わりである。東の夢も嘘も、友人を方角で記号化していることも、秘密のノートの存在も、問題にならない。だが、普通の人の倫理で東を見つめ直すと、すべてがクズ行動に化けてしまう。東をクズたらしめるのは解釈の恣意性である。

 ここでいう普通の人には、我々視聴者も含まれている。

 東は作中人物との関係だけでなく、我々視聴者に対してもアイドルとして振舞う。断片的な情報から勝手に「輝き」を見出せるよう、東はあえて空っぽに作られているように思う。東は心情を言語化しない。特に、心が揺れ動くはずの人間同士の交流に際して、東は不気味なほど無口で、多くが表情や演出によって描写される。東は過去を持たない(美嘉と過ごした記憶の忘却)。周囲と抒情的な関係を持たない(一方通行なコミュニケーション)。「絶対にアイドルになる」という野望以外の人格は徹底的に漂白されている。実際、Xで感想を漁ると、視聴者は東の一挙手一投足に様々な内面の広がりを見出している。作品の評価もバチバチに割れている(私は好き。十年に一度の傑作だと思っている)。トラペジウムは東を介し、スクリーン越しの我々視聴者をもアイドルという現象に巻き込んでいる。


アイドルの行動様式 過程の秘匿と結果の開示

 東がアイドルである以上、他者との交流で因果の飛躍を起こすのは仕方ないが、内面に飛躍があると困る。東の整合性を保つうえでネックになってきそうな点として、「なぜ東はアイドルになりたいという夢を仲間に隠したか?」がある。この点を掘り下げると、東の言動に矛盾が見えてくる。

 本編で提示された東のアイドル観を総括すると、東は、アイドルという理想的な職業に就くことはすべての女の子にとって幸福である、と心の底から信じ切っているように見える。だから自分が、才能に無自覚な彼女らに本当の幸福を教えてあげるのだ、彼女らをアイドルにしてあげるのだ、という(押しつけがましい)行動原理が透けて見える。

 真司との会話より。

―――私、かわいい子を見るたび思うんだ。アイドルになればいいのにって。くるみちゃんも南さんもすっごくかわいいけど、本人がアイドルに手を伸ばさない限りはなることができないでしょ。それってすごくもったいない。私はみんなをアイドルにしたい。そのきっかけを作りたい。
―――アイドルって、きらきら輝いてるんだよ。星みたいに。私も、あんな風に光ってみたい。

 この時点の東は(のちに本人も認めた通り)徹底したエゴイストなので、主張の本体は末尾の「私も、あんな風に光ってみたい」のみだろう。他の部分は全て欲望を正当化するための言い訳だと思う。


 みんな大好きガンギマリ東独演会。


 だが、これはおかしい。もし本当に「アイドルはすべての女の子にとって理想の職業」で「(自分がアイドルになるために)彼女らをアイドルにしたい」と考えるなら、最初から「私と一緒にアイドルになりましょう」と言うだけでよかったはずだ。東ははじめからメンバーをスカウトするつもりで来たのだから、蘭子に友達を作りに来たなどと嘘を吐く必要はなかった。わざわざ大枚はたいてロボット作成キットを購入するまでもなく、くるみにアイドルこそがあなたの幸福なのだと説けばよかった。
 だが、東はそうしていない。理想と行動は乖離し、中途半端な態度に終始している。ここで一般論を持ち出して、同世代の女の子が初対面でいきなりアイドルにスカウトしてくるのは怪しすぎる、とか、物語の展開としても不自然で現実味がない、とかで片付けるのも違うと思う。現に、ご都合主義的な展開は他にいくらでも見つけられる。勧誘の場面だけを特別扱いする根拠は薄い。

 過去感想からセルフ引用。東がテネリタスを訪問する以前に他校でのスカウトに失敗している形跡がある件について。

 書いてて思ったけど、この時点の東は「すべての女の子はアイドルになりたがっている」と心の底から信じているはずだ。であれば、スカウトしようとしている女の子ともアイドルの話で意気投合すればよかったではないか?
 でも、東はそうしていない。蘭子にはあくまで「この学校に友達を作りに来た」と言っている。くるみはロボコンガチ勢という触れ込みで接触している。アイドルの話は一切していない。失敗した4校でも同様だろう。
 このあたりに、東の自己欺瞞がある気がしている。東自身、潜在的に東の信念に疑いを持っている。だから、確かめることができない。実際にアイドルの話題を出して相手が食いつかなかったら、本当に信念が否定されてしまうことになる。それが、所詮は東自身のエゴを補強するための偽りのテーゼだと認めることになる。だからまともに話せない。うまくいかない。
 まあ、こういう不完全な信念だったからこそ後で撤回できたのだろうとも思う。私は終盤の東のことが好きなので、前半の東の理論武装がザルな分には全然気にならない。むしろカスくあってほしい。

【トラペジウム感想#6】まだまだ味がする【ネタバレあり】|とつげきチョッキ (note.com)


 過去の私はこの辺に、東の自己欺瞞を見ている。東は自身の信念に潜在的な疑念を抱いている。目の前の才能あふれる女の子は、本当にアイドルになりたがっているのか?アイドルを目指そうと持ち掛けたところで、受け入れてもらえないのではないか?自分の信念は、個人的な夢に他人を巻き込むことを正当化するための方便でしかないのではないか?と。だが東には、何物にも代えがたい夢がある。東がアイドルになるには、最早才能ある誰かのおこぼれに与るくらいしか道が残されていない(個人オーディションには全落ち済)。だから東は、夢に立ちふさがるあらゆる問題から目を逸らす。当事者の意志のような不都合なファクターに、考えることもなく蓋をする。
 人類には、認知の歪みとかいう便利な機能が備わっていて、各々に都合のいい事実だけを見ることができる。当然、東だってそうだろう。


 と、自分で進めておいてなんだが、論の方針があまりよろしくない。他者との関係において東=アイドルの意図を掘り下げるのは空虚だと散々書いておきながら、肝心の矛盾の根拠をその意図の歪みに期待するのはいかがなものか。所詮は状況証拠を並べただけである。これは解釈の放棄ではないか。
 矛盾点を放っておくと、それは年齢相応の未熟さだとか脚本の甘さだとかに帰着されてしまう。ここまで入念に作り込まれたキャラクターが、そんな安易な結論に着地するわけがない。絶対に解いてやる。待ってろよ、東。


 なぜ夢を隠したか。私の結論は、「東はアイドルとしてしか生きられないから。そしてアイドルとは、過程を秘匿し、結果だけを提示する存在だから」

 アイドルの生き様への東の考えは、真司との会話で語られている。公式が本編映像を公開しているのでまるっと引用する。



―――初めてアイドルを見たとき思ったの。人間って、光るんだって。それからずっと、自分も光る方法を探してた。周りには隠して嘘ついて。でも、自分みたいな人、いっぱいいると思うんだよね。みんな、口に出せない夢や願望を持っていて、それについて毎日考えたり、努力してみたり。勉強してないっていってたのに、百点取る人と一緒でさ。
―――そういう奴ほど、目の下黒くなってたりする。
―――でも、そういう奴ってかっこいい。

https://youtu.be/VgRnDQ5m1G4?si=xhAT28zjTHYP6s2p


 ここでの東の主張は三点。「東は人に言えない夢を隠し持っていて、それについて毎日考えたり努力したりしている」「多くの人も東と同じように夢を隠し持っていて、日々その実現のために行動しているはずだ」「人目につかない場所で夢に向かって努力し、結果を出す人はかっこいい」

 東は、現に夢に向かって行動し、努力している。これで結果を出し、夢を叶えれば、東は「かっこいい奴」になれる。つまり、東はかっこよくなりたいのである。東にとってのかっこよさとは、人目につかないように努力し、グロッキー化しながらも、何食わぬ顔でいきなり百点を取ることだ。泥臭い過程をすっ飛ばし、完璧な結果だけを提示することだ。

 東が想定するかっこよさは、アイドルという職業のありようにぴたりと重なる。偶像性を保ち、生活と人格の不要な側面を秘匿し、入念にデザインされた自身の断片をストイックに提示し続ける。途方もなく孤独で、油断も隙もない、でも輝かしい綱渡り。東の口ぶりには、そういう生き様への憧憬が見られる。

 なぜ夢や願望を「口に出せない」のか?なぜ「周りには隠して嘘ついて」夢を追い求めなければならないのか?それは他ならぬ夢自身が、東にそうすることを期待しているからである。努力の過程を開示するのは、東の想定するアイドルとしての生き様に反するからである。
 真司との最後の作戦会議の後、何故オーディションを受けなかったのかという真司の疑問に東は答えられない。東は真司が去った後、ひとり呟く。「全部落ちたなんて、かっこ悪くて言えないや」。そう、かっこ悪いから言えないのである。夢へ至るまでの困難な過程でもがく様は、完成された断面のみを提示するアイドルの生き様を内面化した東にとって、かっこ悪いのだ。かっこ悪いところは誰にも見せない。もちろん仲間にも。唯一の理解者である真司にさえも。それこそ、東が宿命づけられた、アイドルという徹底的に孤独な現象のありようなのだ。


 まとめに入ります。長くなったので改めてセルフ引用。

 本編で提示された東のアイドル観を総括すると、東は、アイドルという理想的な職業に就くことはすべての女の子にとって幸福である、と心の底から信じ切っているように見える。だから自分が、才能に無自覚な彼女らに本当の幸福を教えてあげるのだ、彼女らをアイドルにしてあげるのだ、という(押しつけがましい)行動原理が透けて見える。

 これで東の内面は整合したように思う。
 アイドルになることがすべての女の子にとって幸福であると完全に信じ切ることと、アイドルの生き様を内面化し、一緒にアイドルになる夢を秘匿することは相反しない。それどころか、強化し合う。東にとって、周囲の女の子がアイドルに言及しないことは彼女らがアイドルに興味がないことを示す何の根拠にもならない。アイドルになりたいなら、なおさらその夢を開示するはずがないからだ(東のように)。実際、東は「でも、私みたいな人、いっぱいいると思うんだよね」と、自身の内面を無邪気に他者に敷衍している。東が見る世界において、他者はすべて潜在的に「アイドルになりたがっている」ものとして(少なくとも現象的には)振舞ってしまう。東はそういう認知のなかに生きている。だから東はアイドルになりましょうとわざわざ言語化することなく、すべての女の子の幸福を決めつけることができるのだ。



 ではなぜ東は、夢の過程を真司にだけは明かしたのか?それは真司が、物語のもう一つの特異点だから。冷酷な星の輝きへの憧憬を共有し、東の美しさの本質を理解する、作中唯一の理解者だから。詳細は次章以降で触れる。


孤独な凍て星・東ゆう

 少しの間、筆者は平静さを欠きます。

 まずはこちらを読んでほしい。

この写真には四人ではなく五人の少女が写っている。東ゆう、華鳥蘭子、大河くるみ、亀井美嘉、そして水野サチ。アイドルになる夢を諦め、ゆうにその衣装を手渡した車椅子の少女である。東ゆうが着ているアイドル衣装は、本来彼女が着るはずだったものだ。だが、映画のラストシーンにサチの姿はない。彼女たちは、五人が写った写真を四人で見ている。その場にいない五人目について、彼女たちは不自然なほどに何も言わない。そして、東ゆうは最後のモノローグを口にする。「夢を叶えることの喜びは、叶えた人にしかわからない」。アイドルになる夢を諦めた少女、その夢を他人に託さざるを得なかった少女の姿を見ながらこの台詞を口にするとき、東ゆうという人物の冷酷さは頂点に達する。

逆説の光、アイドルの条件 「トラペジウム」について|まつきりん (note.com)


 声出た。
 この観点一切なかった。
 東、お前マジか。
 どうすんだよこれ。


 私は終盤の東のことが好きだった。他人を利用し続けた自身の身勝手さを自覚し、こんな自分がアイドルになる資格なんてないと断じながら、それでも夢を諦めきれず、身勝手にしか振る舞えない己の運命を呪いながら、同時に罪悪感に苦しみ、己が欲望の業火に焼かれ、ひたすら前に進み続ける道を選んだ、不合理で理性的で、濁っていて澄み切った東のことが好きだった。


 でも、これは流石に、無理だ。
 15歳時点の東の失態でこれがあったらギリギリ許せた。よりによってアイドルになった後の東がこれをやらかしてるのがほんとに致命的。
 もう、無邪気にお前のこと好きなんて言えないよ。こればかりは擁護の余地ねえよ。



 いや、諦めてはいけない。一度は惚れ込んだキャラクターなのだから最後まで守り通す。論が破綻してもその時はその時だ。死ぬときは一緒だぞ、東。
 容疑者Xの献身で湯川学も言っていた。誰かの提示した証明をなぞることは証明ではない。あらゆる仮説を立て、可能性を潰して回り、他のすべての道筋が断たれたときはじめて、それを真実と呼ぶことができる。そもそも世界に真実などなく、ただ解釈だけがあると、ニーチェもそう言っている。だったら私も解釈を提示すればいいじゃないか。諦めるには早すぎる。幸い、私の手にはまだかすり傷しかついていない(原作東もそう言っている)。

 この時点で、劇場版名探偵コナン・水平線上の陰謀における毛利小五郎と同じ結末が遠くに薄っすら見える。東が犯人じゃなければいいと思って、無実の証拠を探し回った結果、最終的に私もまた、東の冷酷さを告発することになるだろう。そういう予感がある。つら。→そうなった。



 ここからは冷静にいきます。

東ゆうを弁護したい

 前提として、東は視聴者との関係においてアイドルとして振舞い、言葉でなく表情や演出で情報を伝え、広い解釈の幅を持たせられるキャラクターである(東は視聴者との関係においてもアイドルとして振舞う)。この性質は、物語の進行に伴い強化されていく。
 視聴者は中盤以降、東の「意図」を知る手段を次第に奪われる。真司と別れ、モノローグも心情を語らなくなり、Canvasノートも壊される。最終的に、東の内面の機微は表情や言動から推し量るほかなくなる。この情報不足は意図的だと思う。東はいよいよ内面を秘匿し、普通の女の子との二面性を喪失し、アイドルとして完成されていく。
 十年後の東に至っては、視聴者は彼女の言動をどうとでも解釈できる。ラストシーンのモノローグ以外、東が心情を言語化して語ることはない。例えば、インタビューで高校時代ボランティア活動していたと述べる点について、他の人の感想を漁ったところ「私欲のためにボランティアにフリーライドして挙句ブッチしてるくせにちゃっかりボランティアしてましたと平然と答えられるあたり、やはりあの謝罪は嘘で全く反省などしておらず東は最後まで何も変わらなかったとわかる」「ボランティアを通じて知り合った車椅子の少女にアイドルになる夢を託されて実際に夢を叶えたなんてエピソード、インタビューで使ったらウケそうなのに言わないあたり、さっちゃんとの約束は東にとっても大切な記憶なんだと思う」など、(時には正反対の)様々な意見が見られた。まさに東はアイドルだ。視聴者は東の内面の機微を感知する機会を奪われ、解釈の迷宮の中で勝手なことを言い続けるほかない。
 件のモノローグはそういう時期に発せられたものだ(だから私も何とでも解釈できる!はず!)。

 問題の写真のタイトルは「トラペジウム」。辞書的な意味は、不等辺「四」角形。あるいは、オリオン座大星雲の「四」重星の別名。作中で繰り返し登場するオリオン座大星雲は、赤紫に滲むの四つの光として描かれている。実際のトラペジウムとは縮尺が異なる上、等級からしてこんなに明るいわけがないので、制作陣は後者の意味に大いに自覚的と思われる。
 五人の少女が写っているはずの写真に、四を連想させる奇妙なタイトルを付けたのは真司である。
 映画のラストシーンの舞台は、すべて真司によって用意されている。真司の写真展の会場、真司の撮った写真、真司の切り取った東西南北の姿、真司の付けたタイトル。四人は真司の用意した舞台装置、真司の解釈へと招かれている。東西南北の四人が、確かに写真にいるはずのさっちゃんを透明化しているというなら、それはまず真司がさっちゃんを透明化しているということである(東だけが言及していないなら東が冷酷、で話は済むが、他の三人はさっちゃんとそれなりに親密な交流があったはずで、にも関わらず言及ゼロとなれば、それはそれで別種の違和感がある。とはいえ、三人は東より一足先に問題の写真の前に到達しており、東抜きでさっちゃんの思い出話に花を咲かせていた可能性もある。となると、再び東の冷酷さが際立ってしまう)。「真」を「司」るなどという大仰な名を与えられたこの男は、何を見て何を聴いて何を知っていて、何を考えてこんなタイトルをつけたのか。

 真司は、物語のもう一つの特異点である。

 彼は星空の美しさに魅せられた写真家である。言うまでもなく、ここでは星の光がアイドルの輝き(人間って光るんだ)に重ねられている。二人は星の美しさについて触れながら「光っているものはなぜ綺麗なのか」と問う。
 ここで重要なのは、あくまで二人が「星の光」について語っているということだ。星々よりも遥かに強く輝き、世界を照らす太陽について、それが「綺麗」と言及されることはない。
 星の光が綺麗なのは、夜空が暗いからである。太陽が全てを照らす昼の世界で、星が輝くことはない。星の光は夜空を決して照らさない。地上に生きる我々に光を与えることはしない。自分以外の何ものも照らすことがないからこそ、その冷酷さゆえに、星の光は美しいのだ。工藤真司は、東ゆうの冷酷さがその美しさと不可分であることを理解しているただ一人の人間であり、それゆえにこの作品において特権的な立ち位置を与えられている。

逆説の光、アイドルの条件 「トラペジウム」について|まつきりん (note.com)


 作中の真司の役割について完全に同意する。二人は星=アイドルという孤独で冷酷な輝きへの憧憬を共有しており、だからこそ真司は東の意図を知り、傍にいることを許されている。
 真司は自らの用意した舞台装置に「五人」ではなく「四人」を招き、さっちゃんを透明化することで、東に「自分たちは元々こういう人間だっただろ?」と語りかけているかのようである。真司は、十年前の教室にあった東の冷酷さを告発する。そこには、かつて東の意図を知ることを唯一許された共犯者としての顔が見え隠れする。となると、この真司の冷酷さはそのまま東へと照射されてしまう(戻ってきちゃった!)

 

 真司の属性についてもう少し。作中に繰り返し登場する乗り物(自転車、バス、電車、徒歩、車椅子)を主体性の量的尺度のメタファーとする指摘は既に多く人がしているが、真司に固有の乗り物は自転車である。

 自転車は一人用で、乗り手が自分で推進力を生みだし、自分でハンドルを握り、進む先を決められる。主体性の象徴である自転車は作中至るところに登場する(OP、高専の駐輪場、美嘉の写真流出直後、東の高校の駐輪場、など)。だが、自転車に乗っている人の姿はない。自転車に跨っている様が描かれているのは、作中で真司ただひとりである。それも、喫茶店での最後の作戦会議を終えて、東と別れる場面のただ一回のみ。

 真司は中学時代にテカポ湖の美しい星空の写真を撮影している。調べてみたのだが、テカポ湖の星空の美しさは世界的にも有名で、旅行ツアーが多数企画されている。で、真司が東に見せた写真とほぼ同じアングルの写真が旅行会社のWebページに掲載されていた。中学時点の真司も同様のツアーに参加し、あの写真を撮ったのだろう。出来合いの旅程、出来合いの構図である。東はあの写真を綺麗だと褒めたが、当時の真司は、まだ撮影場所も、写真の撮り方も、自分で決められる状態になかったのだ。
 東と別れ、自転車に乗って走り出した真司が次にスクリーンに映るのは、写真展である。真司は、他人の用意した旅程に従うのではなく、自ら進む方向を決め、そして写真家の夢を叶えたのだろう。
 東は真司と別れて以降、事務所に所属し、徒歩のシーンが減り、電車(=アイドル業界のメタファー)に乗る機会が増える。敷かれたレールの通りに走るほかなく、行先を自分で決められない閉塞的な鉄の塊の中で、東西南北は次第に疲弊していく。
 十年後の東は自分の脚で歩いている。テレビ局から出た東は、坂道を自らの脚で力強く駆け上がっていく。だからトラペジウムは、二人の主人公が自分で進む方向を決めることの大切さに着地する物語なのだ。
 では、その二人が共謀して一生自らの脚で歩くことのできない少女を透明化することの意味は、果たしてどうなる?


 いかんいかん、掘れば掘るほど擁護の余地がなくなる。
 別の解釈で中和しないと。


もう一つのトラペジウム アイドルの祈り

 問題の写真が撮られた高専祭で起きたことを整理する。
 高専祭で主に描かれているのは、さっちゃんを中心とした西南北の四人の交流である。
 出店を回る様は、かつて東西南が蘭子宅で親交を深めた場面と重なる。例によってほぼダイジェストだが、ナレーションではなく登場人物間の会話によって進行する。東西南が友情を育んだ過程に比べれば、作劇上の重要性は高いことが窺える。
 最大の相違点は、友情を深めている輪の中に、東がいないことである。ライブへの勧誘に失敗して以降、東は彼女らの後をついていくばかりで、言葉を発する描写は一切ない。東は明らかに疎外されている。そして四人は、東の孤独に無関心である。

 トラペジウム世界に横溢する異様なコミュニケーションの法則は、あくまで東という特異点に固有のものである。だから、東の介入さえなければ、双方向的なコミュニケーションは発生しうる。
 高専祭で、さっちゃんがくるみに声をかけ、東以外の三人はさっちゃんに駆け寄る。スクリーンに映るのは、くるみ、蘭子、美嘉、さっちゃん。背景の出店の看板には「アオハル」の四文字が確認できる。演出が示唆する通り、東を除いた四人の間にあるのは青春の営みである。五人が出店をまわり、東が珍しく最後尾を無言で歩くこの一分間ほど、トラペジウムは水のように無害な青春映画に化けている。
 さっちゃんを軸とした四人の世界と東の間には、覆りようのない致命的な断絶がある。写真が撮影された高専祭の空間で透明化されていたのは、むしろ東の方である。

 しかし、状況は一変する。衣装選びの際、さっちゃんからアイドルの衣装を受け取ることで、透明だった東が再び前景化する。共通の夢=アイドルを媒介とし、東の喪失した双方向的な交流の通路を一時的に回復し、四人の輪の中に東を取り込んでいる。
 これは異常事態である。そもそも高専祭で東が背景化したのは、東がアイドルだからだ。アイドルの機能として、双方向的な交流の通路を閉ざされているからだ。東を背景化させた原因は夢である。東は夢を追うことに不可分の孤独の渦中にありながら、まさにその孤独の原因たる夢によって、孤独から救済されているのだ。


 私はこれを、アイドルの祈り、救済への祈りだと思う。
 アイドルを、東を駆り立て、多くを失わせた狂気の源泉たる夢が見せる、一瞬の憐憫、慈愛だと。


 東を解釈する二つの世界について述べたが、演出上は、昼の世界と夜の世界として現れる。東西南北と出会い、友人としてともに過ごす時間はほぼ昼間のこと。東がひとり自室でノートを開き、作戦を練るのは常に夜、自分自身だけを照らす冷酷な輝きが空に満ちるときである。これらの中間に夕方という特異な瞬間がある。東が友人とアイドルの間で引き裂かれ、周囲に様々な軋轢を撒き散らす、逢魔が時である。
 写真撮影の瞬間も、西日の差し込む教室だった。だが、東は分断されるでなく、調和していた。夢によって切り離された関係が、夢によって接続される。孤独で冷酷でエゴに満ちた夢の過程にあって、それでも諦めきれない、人間に不可欠の双方向的な交流が、東の狂気の源泉たる夢によって与えられる。アイドルの機能上の矛盾である。不徹底である。だからこそ祈りなのだ。救いなのだ。アイドルがアイドルにもたらす、エゴに満ちた救済なのだ。

 孤独な凍て星・東ゆう。彼女を孤独たらしめ、狂気へと駆り立てたまさにその夢が、彼女を孤独から救済する。真司が切り取ったのはそういう瞬間である。


アイドル・東ゆうの到達点

 立論。命名にあたり真司が着目したのは人物ではない。夢だ。真司が切り取った空間に四つあった唯一のもの、それは夢である。
 真司は星=アイドルの魅力の本質を理解していた。そして恐らく、夢を叶える過程と不可分の孤独を、理解していた。真司自身もまた、視聴者の目に触れない場所で絶えず技術的な研鑽を積み、写真家になるという夢を叶えているからだ(過程の秘匿と結果の開示。同じ孤独で冷酷な輝きに惹かれた人間として、真司の描写にもアイドルのありようとの類似性が見られる)。この作品を前にして前景化すべきは抽象的な夢の種類であって、その夢を叶えた主体たる具体的な個人は背景化する。


「夢を叶えることの喜びは、叶えた人だけにしかわからない」問題のモノローグを発する間、東は目を閉じている(さっちゃんの姿を見ながらこの言葉を発したわけではない)。誰の姿を見ることもなく、そう独白する。東の喜びは、東だけのものだ、と。この孤独を誇るようなモノローグには、15歳の東には見られない大きな特徴がある。「自分と他人は別の人格だ」という分別である。東はかつて夢を妄信し、アイドルという理想的な職業に就くことはすべての女の子にとって幸福なのだと信じて疑わず、東西南北を自らのエゴに巻き込んだ。だが、東は反省し、謝罪し、認識を改めた。すべての人が自分と同じように考え、感じるわけではないのだ、と。実際、十年後に再会した三人は、アイドルでないそれぞれの夢に辿り着いている。だから、やはり東の得た知見は正しかったのだ。東のモノローグにはそういう実感がある(東の反省は我々視聴者にも刺さる。我々は限られた情報から登場人物の内面を勝手に想像し、決めつけ、断罪している。空想の人格に発揮されるそういう無邪気な暴力性を、アイドル・東はチクリと刺してくるようである)。
 写真展で再会した四人は、それぞれの形で夢を叶えている。支援活動家、エンジニア、母、そしてアイドル。互いの夢に立ち入ったところで、喜びを実感として理解することはないだろう。「夢を叶えることの喜びは、叶えた人だけにしかわからない」東のモノローグは東だけのものではなく、あの場にいた四人全員に共通の実感ではなかったか。東は同じ空間にいる四人の間にある断絶を所与のものとして肯定し、それでもこうしてともにいられる現実と、東自身の中にだけある本物の喜びを噛み締めているのではなかったか?東には理解できないとしても、確実に三人の中にある喜びに思いを馳せているのではなかったか?

 なりたいじぶんのサビ終わり、曲調が変わり、急にソフトクリームの話が始まる。歌詞に脈絡もなく、このパートだけ明らかに浮いている。特に言及も反復もされないまま物語は進行するが、ソフトクリームは十年後に再会した際のくるみの雑談でようやく回収される。くるみはセルフサービスでソフトクリームを作る店に行って失敗した話をしている。かつてのアイドル活動の象徴であり、東西南北の唯一の楽曲を彷彿とさせるソフトクリームを再び独力で再現しようと試み、「やっぱり」失敗したことを、くるみは愉快そうに話す(よりによって、アイドルをもう一回やるかと茶化され「絶対やだ」と即答していたくるみが、である)。十年前、アイドルに限界を迎えた瞬間の悲愴さとは打って変わって、くるみの口調は明るい。くるみはわざわざ、断絶を再確認している。東の夢は、絶対にくるみのものにならない。逆もまた然り。だが、それでいい。彼女らは、夢の途上でともに生きることはできない。別々の夢を叶えた先で、ともにいればいい。再会したくるみの髪型はかつての東にそっくりである。

 東はさっちゃんとアイドルという夢を共有しているが、モノローグを通じてさっちゃんを拒絶したわけではないと思う。なぜなら、東とさっちゃんの関係はアイドルとファンだから。夢を共有しているからといって、二人は最早対等ではないから。東は自他の人格の区別がついている。そして東はアイドルである。さっちゃんは東という輝きに触れ、勝手に何かを見出すことになる。他に二人が関係する方法はない。仮に東が夢を叶えた喜びを共有しようとしたところで、実際にさっちゃんに伝わるのは東の中にあるのとは別の何かだろう。東は職業的なアイドルとして活動するうえで、そういった「意図」と「結果」のずれに散々接してきたはずだ。ふとした拍子に伝えた東の「ほんとうの」喜びがみるみる別物へと変形していく様を間近で見てきたはずだ。そんなものをさっちゃんに与えたいか?さっちゃんはそんなものを受け取りたいか?
 東のモノローグは「夢を叶えることの喜び」と喜びの内容を限定しているが、そもそも喜怒哀楽の感情は当事者だけのものであって、他者と分け合えるものではない。一般論として、共感とは、相手が感じているように自分も感じることではなく、相手はこう感じているはずだと想像力を巡らせることである。そして、想像力は経験を絶対に越えられない。全く異なる人生を送ってきた人間同士に、そんな都合よく共通の感情のレパートリーがあるはずもない。であれば、東にできることは、徹底的にアイドルとしての機能に徹することだろう。喜びを共有するのではなく、輝きを提供することだろう。


「だから私は、はっきり言える。あのときの私、ありがとう」自分と他人は別の人格だからこそ、そして東だからこそ、はっきり言えることがある、との断りから出てくるのは、過去の自分への感謝である。なぜ、感謝するのか?もちろん、過去の東の行動があったからこそ、十年後の東が夢を叶えられたから、だろう。だが、それだけではない。東が当時の自分に「ありがとう」と述べるとき、スクリーンに映るのは写真のタイトル「トラペジウム」である。だから、ここで強調されるべきは、実現した四つの「夢」である。東に感謝するのは、当時の未熟な東が三人の友人に夢を与え、叶えるきっかけを作ったからである。当時の東は、「今より幼稚で、馬鹿で、かっこ悪くて、かっこよかった」。夢の為に仲間を利用し、傷つけ、自らのエゴのみに従って周囲を振り回し続けた。東に「他者に喜びを与えたい」などという高尚な動機が現れたことは一度もない。そんなろくでもない人間だったとしても、東がアイドルに巻き込んだことで、蘭子はやりたいことを見つけられた。東はくるみの初めてできた友達で、ロボコン準優勝という悲願を叶えた。幼少期にいじめられていた美嘉を救済したことで、美嘉は東に憧れ、自らも救済する側に回ろうとババハウスに出入りし、そこで生涯愛する人と出会っている。当時の東は、ただひたすらにアイドルになりたく、自分がアイドルになることしか考えていなかった。だが、東の「意図」を外れた場所で、東は「結果」としてアイドルとして振舞い、無自覚な救済をもたらしていたのだ。
 だから、東のモノローグを補うなら、こうなる。

 あの時の私、私たちに喜びを与えてくれて、ありがとう。

 これがアイドル・東ゆうの到達点である。東はインタビューの中で、笑顔の手助けができることをアイドルのやりがいに掲げている。15歳の東からは確実に出てこなかった利他的な精神が見て取れる。では、そのために東はどうするのか。アイドルは「意図」と「結果」が乖離する存在だとは繰り返し述べてきた。だから、東は結果を制御できない。東は喜びを与えようとして与えることはできない。笑顔の手助けをしようとしてすることはできない。
 東西南北の夢を叶えたのだってそうだ。全てが東のおかげというわけではない。東はあくまで彼女らが人生の決断をする際、近くにいたというだけで、直接の因果関係を追及するのは空疎だ。そもそも、東が作中一貫してアイドルとして機能する以上、「意図」と「結果」の乖離は常に付き纏う。「結果」として三人は東に感謝しているが、東の「意図」との関連は今更検証もできない。
 それでも、東は自分自身を信じている。今虚空に投じた種が、いつか誰かの喜びとして花開くことを期待して、東は輝き続ける。結果として実を結んだとしても、東が同じ喜びを受け取ることはない。東のもたらした結果を実感することはない。なぜなら、我々は全て別の人格だから。また、実を結んだからといって、それが東のおかげかどうかは追跡できない。どんなに喜びを振りまいても、誰からも感謝されず、それが当たり前だと、何もなかったかのように済まされてしまうだろう。
 だから、東は感謝する。かつての自分に、虚空に種をまき続けた自分に、自分を信じてくれた自分に。今より幼稚で、馬鹿で、かっこ悪くて、かっこよかった自分に。何も知らずにアイドルという現象を反復し続ける自分に。そして、いつか感謝を受け取るだろう、今日の自分に。それが、徹底的に孤独なエゴの応酬の中にあって、エゴに染まりながらも汚されない、東の到達した孤高の輝きなのである。


徹底的に自己完結したエゴの孤独な応酬と、その結果生み出される逆説的なユートピアこそが、アイドルという現象の本質なのだ

 東はアイドルを超越する。15歳の東が反復し続けた現象に終止符を打つ。

 トラペジウムは、東の成長物語である。

 


ま~だまだまだ味がする

 すごいポストを見つけてしまった。


https://x.com/yuyu9yuyu99/status/1804450482464981194


 まだまだ劇場に通うことになりそうだ。全然気づかなかった。

 物語は電車に乗る東から始まる。
 二人の少女とともに電車から降りた直後、カメラは空を仰ぎ、OPが流れる。現在の時間軸の東はOPの間中、自分の脚で力強く歩き続ける。過去の回想でオーディションに落ちた東は、バス(=アイドル業界への既存の参入経路)から降り、不安げに首筋に手を当て(反復される癖)、海岸線を自分の脚で駆け出す。無人の自転車が三台(空席の西南北の示唆だろう。三人がやがて東と道を違え、主体性を持ってそれぞれの夢へと進んでいくところも含めて深みのある象徴だと思う)。ここから東の計画が始動する。
 二人の少女と共に電車から降りることによって物語が始まった以上、同じ二人とともに電車を待つあの場面は強烈に物語の終わりと計画の収束を示唆する。だが、実際はそうならなかった。

 一旦ここで止めておこう。楽しみは先に取っておくべき。





































結び(自分語り)

 自分でも驚いてるんだけど、俺こんなに東のこと好きだったんだ。
 この文章、もう一週間書き続けてる。東を弁護するための論を、書いちゃ消し書いちゃ消ししてる。
 別に暇してるわけじゃない。やりたいことは他にもある。エルデンリングのdlcも進めたいし、ボーカルの録音もしたいし、何よりそろそろ食料調達に行かないとまずい。特にエルデンリングはずっと前から楽しみにしてて初回特典版予約してたのに、まだ開封してすらない。エルデンリングを差し置いてでも東を守護りたいって、優先順位どうなってんだ。
 第一、何から守るっていうんだ。創作上の人格にどんな身の危険が及ぶっていうんだ。

 まあ薄っすら予感はある。多分、俺自身が東を嫌いになってしまうのが怖いんだろうね。

 作中の東の言動はクズの極み、吐き気を催す邪悪、擁護の余地なし、と過去感想でもかなりの悪口を書いてきたつもりだけど、でも俺は、東はただ未熟なだけの15歳でも冷血なサイコパスでもないと思っている。東は整合している。完成されている。血の気の通った、強烈な意味を放っている。ただ我々が、東を貫く格率を理解できていないだけだ。論理的にも、心情的にも。そう思えてならない。

 俺がこういう状態になるのは十年ぶり三回目だ。一回目は米津玄師のゴーゴー幽霊船をきいたとき。二回目は安部公房の壁を読んだとき。何もわからなかった。出てくる単語は知識として知ってるはずなのに、全く理解できなかった。でも、そこには強烈な意味があった。俺に見えないものが、この人たちには見えている。知りたいと思った。理解したいと思った。
 結局、高校三年間はひたすらdioramaのヘビロテと安部公房全集を読破することに捧げた。その結果、一般的な高校生として大切なはずの多くを失ったが、でも現在に至るまで一度も顧みたことがない。それ以上に価値のあるのものを手に入れられたから。あのときと同じ情熱と衝動が、今の俺にはある。
 だから、俺は東と出会えてすごくうれしい。この途方もない意味の塊に出会えたことが、かつての情熱を取り戻せたことが、本当に嬉しい。トラペジウムは青春映画ではないと思っているが、結果として俺に青春をもたらしている。俺が書いてきた文章は、ここでも散々書いてきた通り、ファンの身勝手な救済と、暴力の行使そのものだ。でも俺は感謝している。二度とこんなことはできないと思っていた。東は確実に俺を救った。
 東は実在しない。俺の言葉は届かないここで書いていることに意味はない。でも、ありがとう。だから、ありがとう。

 これからもよろしくな、東。

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