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仕事を人生にしない生き方

「仕事、何してるの?」

人に出会うと、必ず出てくるこの質問。これは会話の一部であり、悪いことを聞いているわけではない。しかしこの質問の回答が、私たちが人を判断する1番の題材となることが多いのがこのご時世。友人との会話を振り返って見ても、「あのレストランのマネージャー、知ってるから行ってみよう」「証券会社で働いてるあの彼、誰だっけ?」「今日のランチ、モデルの子がくるんだ」等、人を職で表すことが多いのではないか。仕事はもちろん社会で生活していくために大切な人生のエレメントのひとつだが、仕事という存在があまりにも大きくなりすぎて、自身と向き合う機会が少ないのがこの現象の原因のひとつだろう。自分自身にさえも、仕事のレーベルを貼ってしまっている現代人。では、仕事をとったらあなたは何になるのだろう?

仕事とは、社会人としての人生のうち3分の1の時間を費やすものである。だが残業などが当たり前になり睡眠もとる時間が必要となると、実際半分以上の時間を占めてしまうのではないか。だからと言って、半分の力を仕事に当てればいいというわけでもなく、もってのほか百パーセントを費やして仕事だけの人生になるのもなんだか納得がいかない。働くとはなにか。仕事に私たちがもつべき姿勢とはどんなものか。仕事と人生はイコールでない。仕事をとって何も残らない自分なんていやではないか。変わりゆく社会の中でその答えを探すためには、私たちの生きる環境をよく理解しなければならない。社会の変化は私たちの存在というのは深く関わっているのだ。だから私はここに綴り、考えたいと思う。これからの私たちの働き方と、在り方を。

人生のエスカレーター

まずはじめに、簡単に私自身の生い立ちを簡単に話させてもらいたい。私は平成初期、関東県内のミドルクラスの家庭に生まれた。宗教的な意図は無かったが、近所で評判の良かったキリスト教の幼稚園に通い、午後にはナーサリーで勉強。小学校は受験をし、国立の学校に入った。小学4年生頃から中学受験の話が浮き上がり塾に通いはじめ、中学受験で都内の偏差値70近くのエスカレーター制の私立中学高等学校に見事合格した。中学は学校の勉強と部活に忙しく、高校は大学受験に向けてさらに勉強に忙しくなる。大学は都内私立に進学し、大学三年になると就職活動が始まった。外資コンサルに内定が決まり、働きはじめ、今までとんとん拍子で上手くことが運んでいた自分の人生から逃げだしたい、と思ったのがその一年後、二十三の春だった。

成功とはなんなのだろう。社会的にみる成功者というのは、高学歴を持ち、大手企業に就職し、安定した人生を送ることなのか。少なくとも、それが私の親世代の人々が描いた成功例のような気がする。もちろんこれらを通して得た経験というのは、紛れもなく私という人間の土台を作るのに良い役割を果たしてきた。しかしなぜ、その安定への道を歩んでいる中、私は足を踏み外したくなったのか。それは自分の人生の目的を探したいという探究心だったのだと思う。エスカレーターに乗っていると、自然と上へ上へと上がっていくばかりで、なぜ自分が上に登っているのかも分からなくなってしまう。自分の足で、目的を持ってどの方角に進むのかを考えることほど大事なことはない。しかし、日本の教育のシステムからは、個人の想像力を生かして進路を考えるような試みは見られない。現在の社会が若者に求めている成功というのは、個人の幸せと対になっているようだ。だからといって、社会から完全に遺脱した道を歩むのにも疑問が生まれる。社会に出て間もなかった二十三の私は、人生のエスカレーターから降り、道のない道を歩き始めた。

ブラック企業

人生のエスカレーターから降りた少し前のこと。大学を卒業し、私はコンサルティングファームで働いていた。初めての社会人経験は、とりあえず選り好みをせずにやってみるに越した事がない。しかし、プライドの高かった私は誰よりもチャレンジングな案件ばかりに興味があった。「ストラテジー」や「海外案件」など、誰もが名前の響きで興味を抱くようなものは常に私のターゲットで、実際に配属してもらえたことも、なんとなく誇らしげに思っていた。会社というものの中に入ると、今まで出会ったことのないような人たちと関わる事になる。考え方や、経験や、学歴や何ら、色々と合わない人たちが一緒に肩を並べてどうこうしようとしているのが現在の日本社会である。そんな中で右も左も分からない新社会人は、何も疑うことなく、膨らんだ期待を糧に足を揃えて働きはじめる。ちょっとしたブレインウォッシュである。

社会人一年目が終わる頃、私の問題意識を蘇らせてくれたできごとがあった。ウォーカホリックな上司と週末もない、睡眠平均3時間の日々と、飛行時間もパソコンを開いて仕事をしなくてはならない弾丸海外出張。それが一ヶ月ほど続いた時、私は体も心も健康な状態では無かった。外見はエキサイティングな仕事をしいて給料もそこそこ良く、麻布にマンションを借りて一人暮らし。周りには文句はないようなステイタスではあったが、私は幸せでは無かった。幸せというものはなんなのか、なんのために仕事をしているのか、全くわけがわからなくなっていた。その時の決断は、私の人生の中での分岐点だったのだと思う。もしかしたらどこか別の人生で、働き続けて幸せを見つけた私もいるかもしれない。けれどこの私が選んだのは、先の見えない、前例のない人生の探求である。

ツールてしての仕事

コンサルでの仕事に終止符を打ち、有休消化をしている時、とりあえず好きなことに関わる経験をしようと考えた。最初で最後のコンサルタントとしての海外出張は、アラブ首長国連邦だった。出張中に出会った人から、毎年3月に行われるアート・ドバイというアートの祭典がドバイで行われていることを耳にしていた。私は小さい頃からアートが大好きで、唯一小学校で好きだった時間は図工のクラスだった。高校の時も美大に行きたいと考えていたのだが、親に将来の仕事のことも考えて進学してほしいという願いから大学に進学し、その中でも美術史を専攻した。コンサルに就職したのは、社会知らずの私が社会の仕組みを理解するのに丁度いい場所だと考えたからである。アート・ドバイのボランティアに応募して、二週間ドバイ滞在の旅が決まった。

一人で新しい土地に行くと、決まって面白い出会いがある。ドバイに行く数カ月前に、友達が誘ってくれたパーティーで彼の仕事の取引先の出張者と知り合っていた。彼はドバイで働いているレバノン人で、私がドバイに来たことを知ると、彼の友達のハウス・パーティーに連れていってくれた。そこでたまたま話していた女性の会社が私のような人間を探しているとのことで、次の日に彼女の会社の人事から面接の連絡があったのだ。知り合いの知り合いを通じて、ドバイ滞在中に仕事のオファーに出会ってしまったのは今でも奇跡的だと思う。こうしてトントン拍子でドバイに引越しが決まり、仕事を通して新しい暮らしを手に入れることができた。仕事を人生のツールとして使うと、いろんな可能性が広がる。

職を失う機会

二六の春、私は大好きだった仕事を失った。転職して、一年も経たない頃だった。何が最も辛かったかというと、仕事を失ったという事実もそうだが、それよりも上司たちとの信頼が全て崩れたことであった。彼らは最後の数週間会社には現れず、最終的な報告も、経理担当の職員から聞くことになった。会社を閉鎖する経緯も話されず、兆候もなしに一ヶ月で解雇されるという報告を受け、上司たちを支えて頑張って働いていた今までの努力が水の泡になってしまった。職を失うことによって失うものも沢山あるし、得るものもあった。

失ったものは信頼、安定した生活、そして将来の計画。得たものは打たれ強さ、経験、空白のプラン。このような経験をすることによって、被害者意識にとらわれてしまうことはよくある。上司のせいに、会社のせいに、社会のせいに、人生のせいに、私は悪くないのになんでこんなことになるんだ、と考えてしまうことは自然なことだ。しかし、その思考サイクルに支配されてしまうと、私たちの人生までもその意識に左右されてしまうようになる。ネガティブな思考にトラップされないように、気づかなければいけないことがある。職を失うなんて経験そうそうない。これは与えられた、人生を考え直すいい機会なんだ、と。人のせいにするか、自分で自分の人生に責任を持って舵をとり直すかは、私たち次第。

自己紹介

仕事がないと、人との付き合い方を考えさせられる。新しい人に会った時、今までだったら「仕事、何してるの?」という決まって聞かれる質問に難なく答えられていた。しかし、職を持たないことによって、相手が私という人間を判断する大きな素材が存在せず、相手にとっても、私にとっても、難しい状況を作ってしまう。社会人イコール仕事という間違ったコンセプトが出来上がってしまっている現代社会で、私という存在を仕事なしで説明するのには勇気のいることだ。私には何ができるのだろう?仕事のタイトルを失った途端に、全ての能力をさえ奪われてしまうような錯覚にさえ陥る。

私は私。そんな簡単なことだが、私マイナス仕事が何になるかを知ってみて、初めて向き合えた気がする。私という人間はなんと呼ばれていて、どんなものが好きで、どのように日々生活しているのか。仕事よりも大事な私を説明するものがたくさんあるのに、仕事にフォーカスしすぎることで「私」のカケラを失っていたことに気づいた。仕事を自己紹介にしないことは、仕事を人生にしない生き方のはじめの一歩になる。


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