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同じクラスのオナクラ嬢 第33話


 九条友里さんの部屋を出て、エレベーターに乗り、広いエントランスを通り、マンションから出た。ふらふらとした足取りで目に入ったガードレールに座り、僕は頭を抱えた。
 やってしまった……。
 そもそも唐沢晶という恋人がいるのに、他の女性の部屋にひとりで来たこと自体が間違いだったと言われれば、それは言い訳の仕様もない。それでもまだ、自分からは手を出さなければ、自分を納得させることができたはずだ。ちょっとした思い出の中に収めることもできたはずだ。
 しかし、だ。
 僕は、ついさっきの出来事を、光景を、思い出す。
 舌を入れられて、驚いたような表情で僕を見る友里さんの顔を、思い出す。
 顔を上気させて、潤んだ瞳で僕の目を見つめる友里さんの顔を、思い出す。
 好き、という友里さんの言葉を。僕も好き、と返す僕の言葉を。思い出す。
 そして――。
 僕は首を大きく振った。今すぐにでも壁に頭をぶつけたい衝動に駆られる。
 なにをしてしまったんだ、僕は。
 あれは、だめだ。
自分から、相手を求めて、手を出してしまった。
 あれが浮気じゃないのなら、何が浮気になるというのか。

 ――これは、ふたりだけの秘密。
 ――唐沢さんには、絶対に内緒、だよ?

 部屋を出る間際、友里さんは僕の耳元でそう囁いた。
 それで、いいのか……?
 隠せば、誰も傷つかない。
 話すことは、ただ自分がスッキリしたいがためのエゴでしかないのかもしれない。
 浮気をしたのなら、その業を背負って、嘘を突き通すべきだ。
 そんな考えだってあるかもしれない。
 でも、僕は――。

 晶の顔が、脳裏に浮かぶ。
 こんな僕のことを好いてくれる彼女の顔が。声が。これまでの思い出が、走馬灯のように、流れていく。
 この先も、彼女を騙し続けることができるのだろうか。
 今日あったこと、さっきあったことを隠した上で、この先もずっと彼女の隣を歩いていていいのだろうか。
 その資格が、僕にあるのだろうか。

 ――あるわけないだろ、馬鹿か。

 けじめをつけなくてはいけない。
 それがたとえ身勝手すぎる自己満足と呼ばれるものであろうと、
携帯電話をズボンのポケットから取り出して、手に取る。
「あの。もしかして、沖内くんですか?」
 不意に呼びかけられ、手の動きが止まった。
 声のした方に目を向けると、車椅子の少女が、そこにいた。
「え、あ、はい……。そうですけど……」
 艶やかな黒髪は長く、肌は透き通る様に白い。
 まるで――。
 そう思ったとき、確信に近い考えが過った。
 この子が、友里さんの妹の、紫乃ちゃんなのでは、と。
「ああ、やっぱり」ほっとしたような息をついて、少女は「いつも姉がお世話になっています。私、九条友里の妹の、紫乃っていいます」と頭を下げる。
 ああ、やっぱり、と僕も返しそうになった。
「加藤さん、ここまでで大丈夫です」
 紫乃ちゃんは後ろを振り返り、車椅子を押していた白衣姿の女性に声をかけた。
「でも、部屋まで送らなきゃ」
 加藤さんと呼ばれた女性は、「こいつ大丈夫なのか?」という視線を僕に向ける。どういう顔をしていいのかわからず、苦笑して会釈をしてみたが、警戒心は少しも薄まっていないようだった。
「何かあったら、すぐに呼びますから」
 手提げ鞄についている四角いボタンのようなものを振って、紫乃ちゃんはにこっと微笑む。
「……わかった。でも、言われなくてもだろうけど、友里ちゃんに心配かけないようにね」
「はーい」
 加藤さんは最後に僕の方を一瞥して、頭を下げて、自分の車の方へと戻っていく。
「……沖内くん、少し、お話できますか?」
 その姿を見送ってから、紫乃ちゃんは、僕を見上げて言った。

 白くて大きな雲が、ゆっくりと青空の中を流れていく。
 友里さんの住むマンションのすぐ近くにある公園に、僕と紫乃ちゃんはいる。日差しが強いため、紫乃ちゃんを日陰側にして、僕はベンチに座った。紫乃ちゃんは、僕が買い与えたペットボトルの水を、美味しそうに喉を鳴らして飲んでいる。
「なんで、僕のことがわかったの?」
「なんとなく、雰囲気で。おねえ――姉からも、鏡花ちゃんからも、なんとなく沖内くんの話は聞いていましたから」
 紫乃ちゃんは高校生くらいだろうか。あどけなさはあるが、言葉遣いや喋り方はしっかりとして大人びている。だからだろうか、くん付けで呼ばれることに違和感を感じない。
「それで、話って?」
 紫乃ちゃんは手の中でペットボトルを転がしながら、僕に顔を向けた。
「沖内くんは、姉のこと、どう想ってるの? もう付き合ってるんですか?」
 直球な質問に、僕は答えに詰まってしまう。
 そんな澄んだ瞳で見つめられると、まるでさっきした行為を責められているようだ。
「……初めてなんです。姉が、男の人を家に呼ぶなんて」
 紫乃ちゃんは眩しそうに空を見上げた。
 視線の先では、1羽の鳥が翻り、自由に空を飛んでいる。
「姉が中学生の時に、鏡花ちゃんが友達になってから、見た目は見違えるくらい垢ぬけたけど、やっぱり、性格はそう簡単には変わりません。本当は自信がなくて、人一倍臆病で、寂しがり屋で、ひとりじゃ何もできない。それが姉です。九条友里です」
 静かに、語り掛けるように、丁寧に、紫乃ちゃんが言葉を紡ぐ。
「いつも周りの目を気にしていて、皆から好かれる人間であろうと無理をしていて……。しんどそうだったんですよね、毎日。でも、ある日から、その様子が変わりました。大学のゼミでの熱海合宿から帰ってきた日から、です」
「え……」
「妹の私が言うのも変かもですけど、その日から、急に乙女になったというか、毎日楽しそうで……。嬉しかったんです、私。きっと、姉に初めて好きな人ができたんだな、って。自分のことのように、いいえ、自分のこと以上に、嬉しくて。だって、姉が明るくなったから。笑顔が増えたから。表情が増えたから。姉が幸せそうにしているのが、私にとって一番の幸せだから」
 紫乃ちゃんが、僕に向き直る。まっすぐと僕を見つめて、言う。
「姉は、沖内くんのこと、好きですよ」
 僕は、情けないことに、なんと答えていいのかわからない。
「だから、これは、姉が大好きで大好きで仕方がない、シスコンの妹からのお願いです」
 紫乃ちゃんが、手を伸ばした。
 僕の手を掴み、自分の額に当てる。
「身体目的とか、そういう中途半端な気持ちだったら、もう姉に関わらないでください」
「……え」
 風が吹き、木々の葉が揺れて音を立てた。
「姉を幸せにできないのなら、姉を今後一生、一番に想えないようであれば、もう、私たちの人生に介入しないでください」
 僕の手を離し、紫乃ちゃんは言った。
 その瞳に光はなく、どこまでも深い色が広がっている。
「姉から、私たちの親のこととか、家庭環境のことは聞きましたか?」
「あ……いや……」
「なら、伝えておきますね。後から、そんなこと知らなかったと言われても困るので」
 蓋が開き、下向きになっていたペットボトルの口から、ぽたっと水が垂れて、地面に跡ができる。
「――姉は、父親を包丁で刺しました」

 普段は穏やかだけれど、酒癖の悪い父親だった。
 少しでもお酒が入ると、人が変わったように、暴力をふるった。
 母を殴り、蹴り、罵声を浴びせた。
「どうして俺ばかりが」
 それが、友里さんと紫乃ちゃんの父親の口癖だったという。
 ある日、その暴力が、いつもは母相手だけで終わる暴力が、それだけでは収まらずに娘に向かった。
 お願いだから、その子たちには手を出さないで。
紫乃が怖がってるから、やめて。
母親と友里さんの訴えも虚しく、父は、怯え切った紫乃ちゃんの前に立ち、空いた一升瓶を上に掲げた。
 いやだ。やめて。怖いよ。お願いします。やめてください。やめて。やめて。
 振り下ろされる。
 友里さんが強引に身体を入れたことで、その背中で一升瓶が割れる。その痛みに、声が出た。
 邪魔すんじゃねえよ。
 父が、友里さんを壁に蹴飛ばす。意識がなくなりかける。
 その目だ、と紫乃ちゃんを見て、父は言った。
 いつもその目で見てきやがって。どうして俺ばかり責められるんだよ。どうして。
 脚を上げ、思い切り、強く、紫乃ちゃんの足を踏みつぶす。
 骨の折れる音が部屋に響き、紫乃ちゃんは叫び声を上げた。
 うるせえ。うるせえ。うるせえ。
 折れた脚を、それでも執拗に、踏みつぶしていく。
 紫乃ちゃんは叫び過ぎて喉が潰れ、声も出なくなる。
 だめだ、と思ったらしい。
 友里さんは「この男がいたら、みんなが不幸になる」と思ったらしい。
 気づいた時には、床に転がっていた包丁を手に取って――。
 母に、褒めてもらえると思った。
 母に、ありがとうと言ってもらえると思った。
 母に、ごめんねと謝ってもらえると思った。
 母に、優しく抱きしめてもらえると思った。

 けれど。

「友里……あなた……親を……父親を……刺したの……?」

 フローリングの溝に、父の血が、流れ込む。
 包丁を持っている友里さんを、おぞましいものを見るような目で、母が見ている。

「恐ろしいっ……! よくそんなことできるわねっ……! 近寄らないでっ……!!」

 どうして?
 私は、お母さんのために。紫乃のために。動いたのに。
 なんで、そんな目で見るの?
 どうして。
 どうして……っ。

「母は、私たちふたりの姉妹を残して、蒸発しました。今もどこにいるか知らないし、知りたくもない。死んでいればいいな、と心から思います。父はまだ刑務所の中のようですね。あの人もさっさと死んでほしいなあ」
 紫乃ちゃんは言う。僕の視線に気づいたからか、「だから、これですよ」と車椅子を指さした。ごめん、と謝り、視線を逸らすと「沖内くんは何も悪くないのに」と笑う。
 僕は、友里さんが取り乱した時の光景を思い出す。男の人が怒るのが怖い、と彼女は言っていた。それは、そういう体験をしてきたからなのだろう。
「まだ、姉も幼かったですし、状況も状況でしたから。保護観察程度の処分で済んだのは幸運でした。不幸中の不幸中のほんのちょっとの幸い、という感じですけど」
 どうですか、と紫乃ちゃんが訊いてくる。
「今の話を聞いて、沖内くんは、どう思いましたか?」
「……そんな簡単に、何かを言っていいようなことではないと思う」
「ああ、いいですね。今、可哀想だねとか辛かったね、なんてわかったようなことを言っていたら、私が沖内くんを拒絶するところでした」
 ふふ、と紫乃ちゃんは大人のような笑みを浮かべた。
「まあ、そんなわけで、その後もなんやかんやあって、今、私たち姉妹はこうして生活をしているんですけど、そこそこハードな人生を歩んでいるわけで」
 車椅子を操作して、紫乃ちゃんが日陰から、座っている僕の前に移動する。まっすぐに、視線がぶつかる。
「姉は、捨てられるということに人の何倍も何十倍も敏感な人です。もしも好きな人に捨てられたら。その時の姉の悲しみはどれほどのものでしょう。今ならまだ、そこまでじゃないはずです。だから、早い内に決意しておいてください。姉を一生幸せにするか、それができないのならすぐに私たちの人生から途中退場する、その覚悟を」
 電話の着信音が響き、紫乃ちゃんが携帯電話を耳に当てた。
『紫乃!? 今どこ!? 時間になっても帰ってこないから、私っ……!』
 友里さんの声だ。ボリュームが大きく、紫乃ちゃんと離れた距離でもはっきりと内容が聞こえる。
「ああ、ごめんね。今家の前だから。すぐに上がる。うん。はいはい。はーい」
 通話を切り、困ったように眉を寄せて「ね、心配性ですよね、うちのおねえ」と恥ずかしそうな、でもどこか誇らしそうな声色で言う。
「それじゃあ、沖内くん。また会うことがあるかわかりませんけど。あ、お水、ご馳走様でした」
 車椅子を反転させて移動をしようとしてから、紫乃ちゃんは思い出したかのように動きを止めて、顔だけをこちらに向けて言った。
「姉のことを、不幸にしたら――私、一生憎みますからね」

 紫乃ちゃんの姿が見えなくなってからも、僕はまだベンチに座っていた。
 汗が、ぽたぽたと頬を伝い、顎から垂れる。
 やるべきことをやらなくてはいけない。
 不幸にするも何も、僕にはもう、誰かを幸せにする権利なんて、そもそもないんだ。

 携帯電話を取り出し、晶にメッセージを送る。

 ――ごめん。もう別れよう。

ん? サポート、してくれるんですか? ふふ♥ あなたのお金で、私の生活が潤っちゃいますね♥ 見返りもないのに、ありがとうございます♥