見出し画像

親ロシア派の分離主義者のもと、ウクライナのドンバスはどう「進化」したか

上の写真:2014年、ドネツクの親ロシア派の集会で、ヨーゼフ・スターリンの肖像が描かれた旗が掲げられる[Mansur Mirovalev/Al Jazeera]

アルジャシーラ 4/22/22の記事を翻訳しました。

副題:「ソ連労働者の楽園」は、ロシアのウクライナ侵攻までに何度も変貌を遂げた。

キーウ、ウクライナ

「ロシアはここに来るだろう。お金もたくさんあるだろう。全てうまくいくよ!」

8年前、ウクライナ南東部にあるドネツクと同名の行政首都で、ミニバスの運転手だったヴァレリーはそう言った。

それは2014年5月11日、ドネツクと隣接するルハンスクの親ロシア派分離主義者によって組織された「住民投票」の直前のことである。

「ドンバス」と総称されるこの地域は、キーウの中央政府から離脱し、今年になってようやくモスクワに承認された。

ヴァレリーは、不作法で頑丈な長身、親切で、純粋で優しかった。しかし、彼はウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ大統領を心から憎んでいた。ヤヌコビッチは、キーウでの数カ月にわたる抗議デモ(ユーロマイダン)の後、数週間前に地位を捨てウクライナを離れたのである。

ヤヌコビッチは2010年に政権を取り、その取り巻きをキーウに呼び寄せた。

彼の手下はドネツクの数百の企業を支配下に置いたが、その中にはヴァレリーの所有する2つの企業も含まれていた。

まず、彼の家具店を乗っ取り、次に養鶏場を手放さなければならなかった。養鶏場では、「皮膚を黄色く見せて売りやすくする」ためにトウモロコシを鶏に与えていたと、彼は誇らしげに当時を振り返った。

彼は最後の貯金をはたいてメルセデスのミニバスを購入し、私(著者)がプロデューサーを務めるテレビクルーが彼を雇って、2014年4月にドネツクをドライブした。私達は彼をヴァルと呼んだ。

ヴァルは、ウクライナで最も親ロシア的な支配者として歴史に名を残すヤヌコヴィチを憎んでいたが、モスクワやロシアのプーチン大統領に対して否定的な態度をとることはなかった。

ヴァルは、プーチンが数週間前にクリミアを併合したようにドンバスを併合し、1990年代にドンバスに幕を開けた腐敗と経済劣化が永久になくなると、心から信じていた。

ドンバスが「ソ連の労働者の楽園」と呼ばれ、炭鉱労働者や鉄鋼労働者を中心としたブルーカラーの人々が高額の給料と多くの特典を享受していた古きよき時代を、ヴァルは思い出していた。

彼らはかつて(ソ連時代)、無料の医療、教育、クリミアや「社会主義陣営」、あるいは東欧のブルガリアやポーランドといったモスクワに友好的な国々への格安のバケーションを手に入れた。
何十万人もの人々がソ連全土からドンバスに集まり、そのほとんどがロシア語に切り替えた。

1991年のソ連崩壊は、ソ連の住人2億8,700万人に痛みを与え、混乱させたが、ドンバスは特に大きな打撃を受けた。

かつて豊かだった鉱山労働者や鉄鋼労働者は、インフレ、組織犯罪、汚職、国家イデオロギーの転換を伴う「捕食資本主義」という新たな現実に直面することになった。

ウクライナは新しいナショナル・アイデンティティーの形成を始めたが、それは予想通り、ウクライナ人の政治家、芸術家、戦争の英雄を讃える事に基づいていた。これらの英雄の中には、第二次世界大戦中にソ連モスクワと戦った者もおり、時にはナチス・ドイツに協力した者もいた。

ソ連で教育を受けた多くのウクライナ人は、アドルフ・ヒトラーを打ち負かしたソ連の役割を誇りに感じながら育ったので、憤慨していた - 特にドンバス地方では。

一方、現地の人々は、資本主義への痛みを伴う移行を民主的改革と結びつけ、法と秩序を回復し、ソ連時代の特典を復活させる、強靭で家父長的な支配者を切望していた。

この地域の多くの人々は、クリミアと同様、無視され、忘れられ、不快に感じていた。この地域の資産の大半は民営化され、(労働者のための無料の奨学金やクリミアへの旅行など思い出したくない)一握りのオリガルヒの手に渡った。

ヤヌコビッチの大統領就任は、キーウの人達への復讐であり、勝利であり、突き放す方法であるとみなされた。そして、彼の恥ずべき(ユーロマイダンからの)逃亡は、大きな失望をもたらした。

5月11日、ドネツクの住民が投票所に向かい、ロシアからの「独立」を決めた時、ほとんどの人が心から喜んでいるように見えた。ヴァルもその一人だった。

ドネツクの整然とした通りを歩いていると、新しいオフィスビルや緑の公園、英国旗の横にはビートルズの銅像がある。

1869年、ロシア皇帝アレクサンドル3世に招かれて製鉄所と炭鉱を開いたジョン・ヒューズというウェールズ人が作った街である。ルハンスクは、1795年にチャールズ・ガスコーニュというイギリス人が鋳造工場を設立したのが始まりである。

ドネツクでも数千人が集会を開き、通常は中央広場のソ連創設者ウラジーミル・レーニンの巨大な像の下で行進を開始した。

彼らはレーニンとその後継者ヨシフ・スターリンの肖像画を持ち、ソ連国歌と共に反ウクライナのスローガンや猥褻な言葉を叫んだ。

写真:市役所の事務所でドネツクの一般住民の話を聞く仮面の分離主義者達 2014年、市役所のオフィスで一般的なドネツク住民の話を聞く仮面をかぶった分離主義者

ドネツクとその周辺で戦闘が勃発し、何千人ものロシアの「ボランティア」に助けられた分離主義者達が、士気が下がり武装も不十分なウクライナの軍人を強制的に排除しはじめた。

砲撃が始まり、アパートの建物に穴が開き、数十人が死亡した。分離主義者とキーウ(政府)は、互いに意図的に市民をターゲットにしていると非難した。

分離主義者達は、多くの犯罪に死刑を定めたスターリン主義憲法を復活させ、人々は「地下室」と呼ばれる間に合わせの刑務所に消えて行き、そこで拷問を受け、時には殺されることもあった。

ヴァルのムードが変わり始めた。

しかし、彼ら(分離派)は高級車を「収奪」し、親ウクライナの活動家やビジネスマンの家やアパートを略奪し始めたのである。

5月のある夜、数人の武装分離主義者がヴァルをミニバスから降りるように命令し - そのままバスを奪って走り去った。彼は、(後に)分離主義者の友人のおかげで、ミニバスを取り戻した。

私(著者)のチームは、2014年7月17日に298人を乗せたマレーシアの旅客機MH17が墜落した数時間後にドネツクに戻った。捜査当局は、反政府勢力が支配するウクライナ東部の一部から発射されたロシア製ミサイルだと発表している。残骸の多くは、ドネツク州のフラボベ村で発見された。

2014年にドネツク上空で撃墜された旅客機MH17の残骸にあったテディベア【Mansur Mirovalev/Al Jazeera】

ヴァルは毎日、小麦が熟した畑に転がっている機体の最大の断片がある所まで私達を連れて行った。

その度に、私達は武装した分離主義者で埋め尽くされた道路封鎖のそばを通り過ぎた。

一度だけ、彼ら(分離派兵士)は私達のケブラー防弾チョッキを「収奪」しようとしたことがあった。重くて着心地の悪い彼らの対空ジャケットに比べれば、優雅で軽そうに見えたのだ。

ある朝、私達が通った道は、焼けただれた小麦畑を横切り、肉の焼けるような臭いがした。

ヴァルのミニバスは、スーツケースを乗せたベビーカーを押す30代の女性と3歳か4歳の幼い娘のそばを通り過ぎた。

彼らは、生放送に遅れている私達のほうに向かって歩いてきていたのだが、彼らを乗せるために車を止めなかった。

彼らを置き去りにしたことに、今でも罪悪感を感じている。

ドネツクは変わった。

アイスクリームを楽しむ人々や通勤する人々の群れではなく、かつての空っぽの殻と化し、まれに怯えた通行人が歩き、疑いの目で周囲を見回す光景が見られるようになった。

生活水準は急落し、一般住民の多くはウクライナやロシアからの人道支援に頼らざるを得なくなった。間に合わせの炭鉱が仕事を提供したが、安全対策が不十分で、多くの人が亡くなった。

ヴァルに親ロシア派かどうか尋ねると、「妻と娘をすでにキーウに送ったので、私達との仕事が終わったら、荷物をまとめて出て行く」と言う。

"To hell with Putin!" (プーチンと地獄へ行け)と言って、長い罵声を浴びせた。

やがて分離主義者達は、西側のジャーナリストを追放したが、(分離派)政権から逃れた人々は彼ら(分離派)の残虐行為について熱心に語った。

ルハンスクの大司教アファナシーもその一人で、親ウクライナの立場から死刑を宣告されたことを話してくれた。

2014年6月の暑い日に、目隠しをされ、壁に立たされたのです。彼は銃声を聞いたが、弾丸は彼に当たらなかった。彼らは目隠しを外し、古ぼけたラダで町を離れるように言った。

しかし、分離主義者は長くは続かなかった。

彼らはすぐにドンバスを十数の反目する領地に変え、工場や炭鉱をめぐって衝突するようになった。分離主義者の指導者達は「何世代」にもわたって非業の死を遂げ、あるいはロシアに逃亡した。

「最も長く続いた」指導者の一人はアレクサンドル・ザハルチェンコで、元鶏肉売りで警察学校を中退し、「ダディ」とあだ名された。

彼は、2018年8月31日、ドネツク中心部のレストラン「セパル(分離主義者)」の照明ランプに隠された爆発物が彼と彼のボディガードを殺害するまで、ほぼ4年間、ドネツクを率いていた。

彼の後任は、ドネツクでねずみ講(MMM)を運営していた製菓会社の元社員で40歳のデニス・プシリンであった。

2月21日、モスクワがドネツクとルハンスクの「独立」を認めた後、プシリンはロシアと「友好、協力、相互支援」に関する協定に調印した。

その3日後、ロシアはウクライナに侵攻した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?