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記憶の抵抗

  レストランで食事をしている。私の左には母が、左前には父が座り、正面には婚約者が座っている。今日は両親に彼のことを紹介する日だったな、と私は思い出す。父も母も、すっかり彼のことを気に入ったようで、三人は打ち解けて楽しそうに談笑している。
  誰だろう、と私は思う。目の前に座る細身の男を、私は知らない。
  確かなことは、私には結婚する予定の人がいるということ、そしてそれはこの男ではないということ。けれど、本当は誰と結婚しようとしていたのか、少しも思い出すことができない。愛しい人の姿が霧のように霞んで、記憶の中に手を伸ばしても、掴むことができない。
  父と婚約者の背後はワイン色の壁で、高い位置に肖像画が掲げられている。この国の為政者の肖像画なのだろう、と私は思う。軍服を着た為政者の頭部は鰯の頭で、ぎょろりとした目玉を私に向けている。
  良い香りね、と母が言う。彼女はナイフとフォークを手にして、白身魚の蒸し煮を食べている。父と婚約者にも同じ料理が振る舞われていて、彼らもその味に満足している。
  私の目の前の皿には、懐中時計がひとつ、載せられている。掌ほどの大きさの懐中時計はくすんだ色をして、秒針が喧しく動き続けている。
  私はナイフで懐中時計を切ろうとしたが、凹むばかりで上手く切れない。仕方なくフォークを突き刺して、懐中時計に齧り付く。硬い肉の脂身のような食感で、合金の人工的な甘さは眩暈を起こさせる。
  婚約者が、何か私のことを喋っている。両親は嬉しそうにそれを聞いている。その人じゃない、と言わなければならないのに、私はなかなか懐中時計を飲み込むことができない。秒針は、未だ皿の上で喧しく規則的に音を立てている。
  やっと懐中時計を嚥下したとき、別のテーブルから女性がやって来る。おめでとう、と親しげに私に言い、彼女は両親と婚約者に挨拶をする。
  彼女は私が大学生の頃、毎朝同じバスに乗っていた女性である。名前も知らないし、話したこともない。
  両親は彼女を私の友人だと信じ込んで、笑顔で応じている。私も彼女と親しいふりをしなければならない気がして、無理に冗談を言って笑ってみる。
  彼女が帰ると、別の女性が二人、やって来る。彼女たちは私を渾名で呼び、親しげにお祝いを言う。中学の頃、別のクラスにいた同級生かもしれないし、そうではないかもしれない。私は笑顔を作ってその場の雰囲気を乱さないようにするが、彼女たちの名前は思い出せずにいる。
  二人が帰ると、今度は中年の女性がやって来る。白髪まじりの髪を肩の上で切りそろえたその女性は、いかめしい表情で私の隣にそびえ立つ。
  ――残さず食べなさい。
  彼女の声が店内で反響する。
  私は彼女を知っている、と思う。小学校低学年のときの担任である。彼女は毎日、放課後遅くまで、食べきれない量の給食を私に食べさせようとした。
  ――残さず食べなさい。
  彼女は再びそう言って、声は再び反響する。
  私は皿の上に視線を落とす。秒針は相変わらず、食べかけの懐中時計の表面をなぞりながら、喧しく規則的に動いている。
  私は残りの懐中時計にフォークを刺して、無理矢理口の中に入れる。
――残さず食べなさい。
  担任の声が頭の中に響いて、秒針の音と共鳴し、私は非道い吐き気を感じる。
  ふと見上げると、担任の顔が鰯の顔になっている。ぎょろりとした目玉で見つめられたとき、私は耐えきれず、口の中と胃の中のものをすべて担任の足元に嘔吐した。
  吐き出された時計は胃液で溶けて、長針と短針は縮れて曲がっている。時計と一緒に吐き出された粘液の中を、秒針がアニサキスのようにうねりながら泳いでいた。

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