何も無くなっても、同じ場所に存在したい
バスケットボールの息吹が、微かに聴こえてくるようになりました。契約業務や、練習だけは少しずつ行われているようです。
「新しい生活様式」を確認しながらの、恐る恐るの日々が続いています。
バスケットボールよりも、接触の少ない野球が無観客試合から開幕し、そして、バスケットボールよりも、屋外でコートの広いサッカーが幕を明けようとしています。
どう前向きに見積もっても、私たちただの観客が、バスケットボール観戦に行ける日は随分と先になりそうな気配です。
その詳しい仕組みはガイドライン解説に回すとして。今日は応援のはなしです。
私たちは多種多様な応援のやり方で、バスケットボールを観ていました。チームも選手も、出来る限りのファンサービスでそれに応えてくれました。
きっと誰にとっても忘れがたい経験でしょう。
試合前に手を振ってくれたこと。
歌やコールがあったこと。
声を出して応援できたこと。
素晴らしいプレーに歓声を浴びせたこと。
ハイタッチのサービスがあったこと。
ひと声励ませたこと。
固まって応援のアクションができたこと。
サイン会があったこと。
記念撮影ができたこと。
バスを見送れたこと。
ルール内での出待ちができたこと。
数え上げれば、キリがありません。私も全てではありませんが、経験させてもらえたことは、全てが大切な思い出のひとつひとつです。
どんなスポーツでも、観られるようになったとき、その全ては禁止でしょう。特にバスケットボールは体育館ですから、ウイルスに対して、有効な手立てができるいつかその日までは、ずっと。
各自、家族以外とは離れて座り、黙ってマスクをして試合を観る。
たぶん、観戦が解禁されたとき、それが許される唯一の来場のしかたです。
それでもまた、バスケットボールを観に行きますか?
私は即答でイエスと答えるでしょう。私はカメラは撮りません。声を出して応援していましたが、たとえそれが無くても、試合を観られれば充分、チケットを買う価値があります。たとえ、減席になって、単価が倍以上になったとしても、です。
なぜならば、私が観に行く理由、私の好きな選手のバスケットボールのプレー全てが、私にとっては幾ら払っても惜しくない価値のあるものだからです。
それだけ、私にとって、彼のバスケットボールは至宝です。勝ちを目指して走り続ける彼の背中を観ることは、私にとって生きる喜びのひとつです。
プレーを観るだけならば、もちろん配信でも観ることはできます。世の中が不安定なうちは、それで満足するつもりです。ただ、もし、観客を入れていい状態まで回復したとき、彼のバスケットボールが観に行けるチャンスが私にもあるのならば。
私は必ず観に行きます。
応援は、究極の自己満足です。単なる趣味です。好きな選手やチームにほんの少しだけチケット代というお金を払う、ただそれだけの行為です。
サービスが何も無くなってもいい。
私は彼のバスケットボールが観たい。
そこに存在したい。
何の役にも立ちませんが、
ただ、その試合だけでも共に在りたい。
そう思っています。
2020.06.25.