見出し画像

こんな時だから「何を言ってもいい」

寒い雨の日です。


こんな時ってなんだよそもそも。
私は有事だからとか平常時だからとか、物事を考えたり話したり行動したりするときに、判断の基準にしていません。

ブレッブレじゃん。貫いとけって。

だって、ダサくないです?私は冴えない平らな顔したおばさんなんだけど、そういうダサいのはちょっとね。


たまにはこういうnoteで。だって雨だし。


ポジティブは気持ち自体を暗くはしないけれど、続けすぎると若干窮屈だ。かといってネガティブだけでいると、考え立ち止まることはできても、精神的にしんどすぎる時もある。

そう考えている。

今まで他の媒体で書いてきた文章の中でも、再三繰り返しているのだが、私はあまり「どちらが良い悪い」の話はしていない。そもそもどちら、つまり、あちら・こちらの対立構造だけが、私が話す物事の、そしてこの世全てではないからだ。現実はもっと曖昧模糊として、グラデーションになっているのが世界。

白黒つけられるのであれば楽である。

あの考え方は悪い・自分はだから嫌い・言った人は酷い人。

この考え方は良い・自分はだから好き・言った人は凄い人。

このドリンクバーガーポテト否定セット肯定セットどちらになさいますか?みたいなセット売りで分けられたら人生もっと楽しいのかしら。というか、もしかしてこれが今のスタンダード?

私はこの6項目の組み合わせは事象によってバラバラなので、必ずしもこの組み合わせ通りではない。あと、隣の人がそれにしたからとか、一緒に行動している○○ちゃんがそれにしたからとか、みんな頼んでるからとか、クソほどどうでもいい。自分の決定に他者が介在することがほとんどない。

考え方はいいな、と思っても自分が好きとは必ずしも連結していないし、考え方は合わないな、と思っても凄いなと思う人もいる。一つの意見で対立したことがあっても、別の意見では一致側にいるかもしれないし、それと善人か悪人かというようなことや、お人柄とはあまり結びつかない。

補足しておくと私は意見のやり取りと、誹謗中傷合戦は別物だというスタンスだ。誹謗中傷されたら嫌いにはなる。対応策も考える。それでも好きだと言えるほどマゾヒストでもなく、また、優しくもない。

意見交換や、それぞれの考え方が違ったときに、あっ反対意見みっけ!バカにされた!みんな集まって〜一斉射撃用意!…と、ほぼイコールで結び付けられていることが今の(私を取り巻く関係の中では)スタンダードなのかは、よくわからない。

ただ、単純すぎやしないか、とは思う。それがいいかどうかは興味がない。ただ、自分は安直すぎるものは好かない。年齢を経てから特に、脊髄反射はみっともない、と思うようになったからだ。


考えていることを書くにあたって、前置きとして近年書かなければならないことが増えた。

「これはあくまで私個人の考えで、誰かに強制する意図はありません」。

こんなん、当たり前である。その人が書く文章というだけで、他人への強制力なぞはじめから、存在しない。強制する、される、というのは

あるきっかけで、同じコミュニティに属した時に、「貴女は発言に気をつけるといい」

などという主旨のメッセージを実際送りつけられたときはお?強いるの?とは思ったが。これだってわざとではなかった、のであれば許すべきものなのかもしれないし、だからと言って、悪い人であるわけでもない。

返信の内容は忘れた。言うことは聞かなかった記憶しかない。

とにかく強制するほど私は偉くない。強制されたくないから、誰かに強制もしない。そのつもりではある。

ただ、書くことはやめない。賛成しないなら黙れ、肯定できないなら黙れ、反対できないなら黙れ、否定しないのなら黙れ…

鬱屈した日常の中で、自分の信念にそぐわないものを目にしたときに、そうなりがちではある。けれど、本来思ったことはある程度自由に発言できるのが民主主義のはずである。それが、平常時でも、有事でも。

考えたことを、常識的な言葉遣いで、自分の場所で書くことを私はやめない。もちろん、それに誰かが、見知らぬ場所で好悪含めた反応をすることも自由だ。

こんな時「こそ」皆で何かがしたくなる。とてもよくわかる。全員で感動を共有したくもなる。その感情に飢えているからだ。

だが、全員が全員、同じことができるとは限らない。平常時なら、忘れていないような簡単なことだ。そして、こんな有事でも、だ。

日頃の我慢が続いているが故に、その「皆でする何か」に理由があって、加わっていない人たちが憎らしく思える、腹立たしく感じるようなことがある。

外出の自粛を推進しているのに、出歩いている人を見ると腹が立つようなことはわかりやすい例えか。だが、思慮できれば知っている。出歩く理由がある方もいること、出歩くなということに全人類が納得することはないこと、軍や強権勢力のないこの国では武器で脅して閉じ込めることはしないことを。

こんなにがんばっているのに、どうしてなのか、と思うことはごく自然なことだ。だが、どうしてなんだ!から、同じ言動をしないものへ攻撃することへエスカレートすることは、有事ならば許される振る舞いなのだろうか。


この鬱屈は、民衆の誰かのせいではない。


辛い日に、私はよく自分に繰り返し言う。
止まない雨はない。
明けない夜もない。

2020.04.13.