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西欧からみた「きもの」:日本趣味のコケットリ


まえがき  


きものの何の要素が起因して、ジャポニスムとなったのか。そこにはどのような価値観があったのか。東洋趣味(オリエンタリズム)および日本趣味(ジャポニスム)を構成する、日本の衣の服飾特性・文化史的特性を明らかにする。

 
 そもそも、19世紀末頃の西欧における、「東方(オリエント)の女」に象徴される「(単独で)踊る女」とは、社交界のペアダンスを除いて、西洋の貴族社会においては、お金で買われる娼婦のような身分の女性であり、貴族の女性たちが禁じられたものを体現する生き方をしていた。
 「女性は慎ましくあるべき」という道徳は、舞踊だけでなくヌード絵画にも表れており、ヌードは常に、古代ギリシャ・ローマ、あるいは東洋趣味に仮託され、女性の裸体はそれらの背景を持ったうえで描かれるべきものであった。
 エドゥアール・マネを先駆とする印象派絵画は、彼が描いた『オランピア』により、幕を開ける。マネは、作品と同時代のパリに生きる娼婦のヌード絵画を描き、物議を醸した。このように、「女性は慎ましくあるべき」で、一人で踊ること、公に裸体を見せることは、いわば淑女にとっては悪徳であり、娼婦に等しい行いであり、貴婦人にとっての禁忌であった。
 その禁忌の向こうにある憧れは、実はマネが物議を醸すよりずっと前に、服飾上で幾度か形を結んでいる。禁忌への憧れは、古代ギリシャ・ローマ、あるいは東方趣味に投影され、神話の時代ま
たは異国趣味の服飾が、しばしば見られていく。


フランスと日本の衣の接点

フランスの女性服飾における東方趣味・日本趣味の流行 

  1. インド更紗の流行、および室内着充実の意識(17世紀後半)

  2. インド更紗の流行、および室内着充実の意識が再燃(支那趣味【シノワズリ―】・18世紀前半、ロココの美意識から派生)

  3. 宮廷での過剰装飾の造形美、一方で服飾の簡素化(18世紀後半、ロココ・新古典主義の美意識から派生)

  4. シュミーズ・ドレス(フランス革命-ナポレオン帝政期、新古典主義の美意識)

  5.  釣鐘型で くるぶし丈のドレス(19世紀前半、ロマン主義【懐古趣味(特に15-16世紀・中世)、東方趣味】およびクラシック・バレエのチュチュの美意識)

  6. コルセットの放棄・キモノ袖・キモノ風打合わせ、室内着としての「キモノ」、(19世紀後半-20世紀前半、ジャポニスム)

 ここでは東方趣味の一例として、ジャポニスムの服飾、とくに、その契機となった室内着としての「キモノ」について見ていく。
 きものは、ジャポニスムの波に煽られ当時のパリ・モードに影響したが、そのまま着るには、新興の成り上がり(ヌーボリッシュ)が台頭していた当時の上流社会にとって、かなり異質な衣服であった。そこで、きものは社会的な規制が幾分緩やかな室内着として着られることになる。ここではきものは1.形態上の緩やかさ、2.着用された場の社会的規制の緩やかさ、という2点の緩やかさ、あるいは開放性を有している。
1870年代からフランスにおいて室内着として着られるようになったきものは、1880年代には、欧米の知的で富裕な階層の女性たちに、贅沢な室内着として受け入れられ、人気があった。きものは、身体に纏わる「快適性」の概念が次第に拡がりはじめた西欧社会に、ひとまずは、室内着として受容されていった。やがて20世紀初頭から、欧米に一大潮流を巻き起こし、新しい服種としての「キモノ」の地位を固めることとなる。
おそらく19世紀後半の西欧人の多くは、浮世絵に描かれたきものとその着装を見て、洗練された装飾性ある布の魅力、流れるようなドレープの美、コルセットを着装する西欧服の窮屈さに対し、身体を圧迫しない緩やかな着こなしに驚嘆したであろう。今日のきものの着付けは必ずしも緩やかではないが、明治時代初期の日本人女性たちを映した当時の写真からは、日常的に着られたきものが現代のそれよりは緩やかに着熟された衣服だったことがわかる。さらにいえば、きものそのものの衣服の構造・形態は、間違いなく開放的な衣服の部類に分けられる。
その開放性こそが、春画の裸身に通じる、身体へのアクセシビリティの要となり、翻ってきものをエロティックな、放埓な衣服というイメージにしたのであろう。衣服が裸身と遊戯し絡み合うきものは、衣服が禁欲の象徴として存在する西欧的思考にとって、目を見張るものであった。
 西欧人の、きものに対する「エロティックで放埒」というイメージは、彼ら彼女らに同時代の劇芸術や絵画に見られた「東方(オリエント)の女」を想起させたと推測する。
古代ギリシャ・ローマの女神、日本を含めた東方趣味における「東方(オリエント)の女」ともに、当時の西欧では、裸体・誘惑の偶像性を有している。
当時の東方(オリエント)は、西欧に対して国力が弱かったので、国際関係による東方(オリエント)の媚態、西欧における禁忌の向こうにある憧れという神秘性、室内着として「キモノ」が着られる場の緩やかさ、裸体へのアクセシビリティ、すべてが繋がり、西欧において、裸体・誘惑の偶像性となっていった。
それを暗示する服飾表現の間接性は、哲学者ゲオルグ・ジンメルが唱える「コケットリ」の概念に象徴される。社会学者ゲオルグ・ジンメルは著書『社会学の根本問題』のなかでこう述べる。

男性が、この自由に揺れ動く遊戯、エロティシズムにおける或る決定的なものがただ遠いシンボルのように仄見える遊戯、それ以上のものを求めない時、(中略)あの仮初のものの魅力を感じるようになった時、その時に漸く社交が始まる。コケットリは、社交的文化という高所にこそ優美な花を開くもので、エロティックな欲望、獲得、拒否という(中略)こういう切実なもののシルエットの縺れとして生まれるものである。(中略)社交におけるコケットリは、(中略)奇妙な、いや、皮肉な遊戯なのである。社交で社会の諸形式の遊戯が行われるように、コケットリでは、エロティシズムの諸形式の遊戯が行われる

『社会学の根本概念』ジンメル,

  翻訳1979,p85

ジンメルの言う 「エロティシズムの諸形式の遊戯」に、室内着としての「キモノ」は、社交の場において一役買っていたと考えられる。
それは、誘惑の偶像である「東方(オリエント)の女」の要素が、服飾によって間接的に表現し得たことを意味している。

衣服の形状とエロティシズム

西洋(哲学者バタイユ) ヌードという概念→
身体の隠蔽と顕示、禁忌と美の狭間で
日本(窃視) 扇 着物からの肌の垣間見

ここでは、日本美術の絵画から、裸体にまつわる日本のエロティシズムについて述べる。近世に描かれた遊楽図は、野外遊楽図と室内遊楽図との2つに分類され、屋内外での男女の遊楽の姿を描いたものである。
人物描写に主眼をおきながら、画面の遊楽気分をもりこみ、見る者にも楽しい気分を伝達させるのが野外遊楽図といえることになろう。
室内遊楽図は、桃山時代ではなく江戸時代に成立し、作品数を増していったという。
室内へと鑑賞者の関心が遷移し、邸内を大きく描いたそれまでの遊楽図よりもさらに視点が絞られた、画中に一室を切り取る、室内遊楽図が登場する。
特徴として、従来の遊楽図と異なる点は、背景描写が極力省かれ、まっさらな金箔を背景に、より精緻になった人物描写がなされている点である。
「彦根屏風」の類型の作品が数々生まれ、次項に述べる婦女図のように、背景を描かず女性のみを描く作品が増えていくことから、鑑賞者の関心が人物、とくに女性の姿態へと高まっていったことが裏付けられる。
人物への関心はさらに増し、群像を捉えるのではなく、群像中の個々の単身像へと主眼が移る。
一人立の美人画は、浮世絵師に受け継がれ、やがて浮世絵における美人画の誕生をみる。
絵画を媒介して女性は鑑賞されるようになった。
言い換えれば、婦女図が現れた時期において、絵画は鑑賞者が間接的に女性を見る行為であり、生身の女性を直接に鑑賞する行為の手前に介在していたともいえる。
日本美術史において、女を描いた絵画は「窃視」の視点から描かれているという説がある。「窃視」とは盗み見ることを指す。平安時代には公家男性により、公家女性への垣間見が行われたように、一般的には、女性は異性へ扇で顔を隠すなどをして生活しており、平安時代には忍んで見られる対象であった。「見る」とは、古語では逢瀬をも意味した。
画中の顔貌表現には婦女一人ひとりの個性が存在せず、平安時代に女性が公然と見られるのを避けたように、多くの日本人の絵師には女性の顔貌をあからさまに見ることに対し遠慮があったとも考えられる。その美意識は浮世絵における美人画の顔貌表現にも継承されているかに見える。
その「窃視」「垣間見」の美学が、日本人の裸体へのエロティシズムにも影響しているのではないか、と考えられる。着物が本来は裸体へのアクセシビリティが容易な服飾であった、という件の通り、着物から ちらりと見え隠れする素肌が、西欧人は勿論、当時の日本人にも扇情的と取れたのではなかろうか。
しかし、それは、素肌が着物によって見え隠れすることに対しての扇情性であって、裸体そのものへのエロティシズムは、当時の日本では殆ど存在していなかったと考えられる。
西欧では、美的身体であるヌードを衣服で隠蔽し、公に見ることを禁忌とすることで、哲学者バタイユが唱えるような、禁忌への侵犯というエロティシズムが働いている。
浮世絵の春画をみても分かるように、まぐわいを描いた絵画であるのに、着物や夜具の意匠や、流れる布の質感等にかなり力を入れている。
局部以外は着物を着ている構図の作品もしばしば見受けられる。
 こうしたエロティシズムが、日本のきものの特性にも影響していると考えられる。きものは西欧のように身体を隠蔽し、かつ、ぴったりした形状によって、その肢体を顕示する衣服とは異なり、日本のもうひとつの裸体芸術である刺青のように、日本の着物には裸体を荘厳する機能がある。そこから派生して着物には、西欧の衣服においては異国趣味と呼ばれるような、華やかな色彩、さまざまな趣向の模様が見られていくこととなる。

芸能装束とコケットリ

扇:バレエ(キトリのスペイン舞踊)-成熟した女性
歌舞伎(京鹿子娘道成寺)-中性・未成熟

バレエ


 「東方(オリエント)の女」を彷彿とさせる、バレエ。『ドン・キホーテ』は、スペイン舞踊を取り入れており、扇を使った華やかな踊りが印象的な演目である。スペインと扇の関係性については、日本から扇が輸出され、スペインやフランスで発展していったことがある。
 『ドン・キホーテ』のキトリのバリエーションでは、フランス発祥の扇言葉の文化が振付に生かされ、扇の仕草に注意を払いながら踊られるという。 なお、「東方(オリエント)の女」が西欧に影響を与えたものがバレエ、日本での扇を用いた一人舞にあたるものとして、歌舞伎における京鹿子娘道成寺の、若年の女役に焦点を当てた。

歌舞伎


 厭世観の具体例には、「浮世」がある。アニエス・ジアールは『エロティック・ジャポン』のなかで、日本の文化を創生している構造には、厭世的な冷笑がつきまとうと記している。ここでの「厭世的な冷笑」とは「浮世」のことである。「浮世」は「憂き世」が語源であり、世を憂いて享楽的に暮らす生活態度をいう。
この厭世観は、現世から離れ、滅びを美化する考え、「滅びの美学」に日本人を傾倒させた。「滅びの美学」すなわち厭世的な冷笑を味わい続けるために、「浮世」のイメージは、文化史上に永遠に繰り返されるという。この輪廻にも似て繰り返される「滅びの美学」への傾倒は、死、あの世を連想させるものへの賛美につながる。繰り返される浮世の観念があり、日本人が歴史の中でこの世の外のイメージとして、遊楽を求めてきたことがいえる。「かぶき踊り」での「かぶき者」は、「かぶき」の美学を、異装による華美な服飾で演者を彩ることで性の倒錯性を表現し、人々に注目された。常軌を逸する意を含む「かぶく」(傾く)は、日本の伝統的な芸能の「狂い」に通じているとも推測される。「狂う」ことで演者は、しばしば法悦状態を表現しているとも考えられる。
 飾ることで、日本人は極楽浄土に似た悦楽を味わっており、飾ることは、滅びの美学を具象化させる手段でもある。「滅びの美学」を感じるための、具体的な手段、視覚効果として、服飾が華美である必要があったのではないか。こうして「滅びの美学」に傾倒した日本人は、芸能を鑑賞することで極楽浄土を視覚的に疑似体験する愉悦を味わっていたと考えられる。
「浮世」を慰め、「極楽浄土」を体感させる概念には、「荘厳」がある。「荘厳」とは、「仏国土の徳を示すために、華やかに立派に飾りたてること、またその飾り」をいう。これは、ある種の呪術的な目的のために、装飾を施したということである。
 京鹿子娘道成寺は、白拍子の姿で舞踊する女形が見どころの1つとなっており、男性の服飾である烏帽子を冠し、未成年の象徴である振袖姿の衣裳であることから、若年の女役でありながら中性的とも未成熟性があるとも読み取れる。
 これは、京鹿子娘道成寺の女役と同様、若年の女役を表していながら、成熟した肢体を魅せて踊るバレエとは対照的であり、肢体の形状にエロティシズムが存在しない日本らしい女性の描き方である。身体的には男性の役者が、若年の女役を演じることが出来てしまうというのも、西欧人に比べて身体が貧弱で、文化的にも衣裳の美を重視し、衣裳が女性の装いであれば女性と見なす、という日本ならではの特性がよく表れているように思う。
そして、同じように扇を使って踊る場面が見どころでありながら、日本の扇と西欧の扇という、文化的な違いもある。裸体観の違いは、日本の歌舞伎では扇から顔が、まなざしが見え隠れする所作がみられ、スペイン舞踊を取り入れたバレエでは、肢体を顕示する小道具のように使われるという、違いを生み出してもいる。扇という小道具は、西欧だけでなく日本でも、エロティシズムから派生した社交上の遊戯の形式さえ伝えている。

 

花模様と日本人の美学

ジャポニスムの植物模様-菊・桜・しだれ桜・竹・篠・萩の葉・菖蒲・アイリス・松川菱・葵、
19世紀 武家女性の小袖(藤・菊・牡丹)

西洋更紗

日本の植物模様-吉祥模様・洋花模様

  日本の服飾において花模様が、長い間普遍的に愛されてきた背景には、「気高く物心ともに満たされ、物事への審美眼が冴えている状態」という、日本人の理想の在り姿への憧れを花模様に託す心理があったからと考えられる。一方で、そのような理想を表象する模様は、宝尽くしなど縁起のよい模様にも見られており、花模様特有の美意識とは言い難い。そこで、花の、花卉(観賞用の花)としての物理的特性に目を向けてみる。花模様は、花が本来持つ物理的特性「どんなに美しい花も、咲いては散る」ことによって、日本人の哲学である『諦念』や、そうした花特有の儚さや滅びを一旦受け入れた上での、日本人の『美への憧れ』を示唆している。花模様に宿る美意識とは、花卉の儚さや滅びを前提としたものであるところに、その特性があると考えられる。加えて、花の季節が終わってしまっても、どんな花も季節になればまた短い命を捧げて美しい花を咲かせるという、日本人が伝統的に学習してきた自然界の法則をもとにした、流動的な栄枯盛衰、『美の寿命も輪廻していくという悟り』もあった上で、日本人は花模様を愛してきたと考えられる。
 日本人の『美への憧れ』とは、花の視覚・嗅覚的特性に留まらず、植物としての生態や咲く時期から、美しい心への理想さえも、日本人の理想の在り姿に投影していると考えられる。
 歳寒三友は、日本人の理想の在り姿が、過酷な環境にあっても満たされている時のように気高くありたい、という逆説的な美学で、中国から渡来した花々の概念に感応した結果であると考えられる。のちに、そこに吉祥性が加わっていったと考えられる。

     

花木と女:ミュシャが描く女と、浮世絵の「桜花美人図」


 アルフォンス・ミュシャは、パリにて、花とともに、流線・曲線的にうねる髪や衣裳が特徴的なスラヴ女を描いており、唐草模様の蔓を思わせる表現は、日本の美術工芸品から想を得たと言われる。
日本美術では江戸時代まで、絵画の中で女性の顔貌を様式的に描いてきた。それは、女性の顔は直接的に見てはならないものという観念があったためである。日本の古典文学でも、女性(および文化の上で女性的な存在)の顔貌を描写するとき、顔の造作について具体的に触れず、肌の美しさを雪に喩えたり、豊かな黒髪の美しさを漢詩から引用したり、かぐわしく香が薫る様子などを描写したり、ただ「光る」ように美しいと描写したり、とにかく顔の造作を明らかにしない。江戸時代までの絵画では、顔貌を様式的に描く代わりに、浮世絵などは、服飾や装いを詳細に描いている。顔貌を明らかにせず、着ているものの美しさで容貌の美を表現する美意識は、平安時代の、出し衣(いだしぎぬ)に既に見られている。
また、江戸時代には、人ではなく着物や調度だけを描き、遊郭などにおける、忘がたい人の面影を暗示する『誰が袖図屏風』が製作されている。これらのことから、身体の形状や裸体そのものよりも、服飾により醸し出される人の面影と、見え隠れする素肌の取り合わせが、長らく・根強く日本のエロティシズムであったことが窺える。

 日本服飾史の観点からは、長崎巌が『日本の美術8 小袖からきものへ』にて、具体的な「小袖ときものの特質」を、身体の存在感を弱める衣服として紹介している。

日本のきものは、そもそも人体の存在を離れて、衣服それ自体で服装美を表現しようとする傾向が強い、という特徴を持っている

『日本の美術8 小袖からきものへ』長崎,
2002,p26

 例えば、江戸時代の女性服飾において、小袖は前面ではなく背面が模様表現の場として中心的役割を果たしており、より広い面積を持つ背面は、模様表現に適していると考えられていたためであるという。小袖が背面性を重視することは、衣服の内に包まれた身体や、固有性のある顔立ちは重要視されていないことを意味すると推測されている。
 「日本の美術8」で長崎巌は、小袖に多様な装飾が施された背景を、

人体を離れてもなお、これらが十分に服装美の表出の可能性を持っていた(中略)従って、小袖とその延長線上にあるきものの服飾美は、その形態ではなく常に意匠に求められてきた

『日本の美術8 小袖からきものへ』
長崎,2002,p27

と述べている。
 長崎は肉筆浮世絵大観二において『肉筆浮世絵の服飾描写』について著しており、美人画に描かれる美人の要件に関して、以下のように述べる。

肉筆の美人画においても、顔貌の描写は非常に類型的であり、(中略)女性の個性表現に向けられているとは思えない。これは(中略)絵師の絵画表現上の個性(様式)を反映したものである。
 それでは、顔貌や姿態を類型的な表現で表される女性が、美人画において「美人」としてモチーフとされ描かれる必然性は、何であったのだろうか。衣服を含めた着装姿が、面貌や姿態とともに全体としてある種の実在感を持つことがそれに
当たる、とは考えられないだろうか

『肉筆浮世絵大観(2) 東京国立博物館2』長崎,
1995



さらにそこで筆者は、その顔貌の美しさは、日本の絵画において、花を媒介して表現されることがあったのではないか、と考えている。『桜花遊女図』『桜花美人図』は、桜とともに美しく装った女性が描かれる絵画で、このように題される作品以外にも、こうした趣旨の絵画作品群は存在する。桜と女性を描いた絵画は多く見られ、絵画において桜は特に女性の顔貌の美しさを暗喩する花ではなかったかと思われる。そして顔貌の美だけでなく、日本人としての心を含めた在り姿、つまり全身の風情の美を、桜に託していたのではないだろうか。
江戸時代までの日本の絵画では、趣向を凝らした女性の服飾を丁寧に描き、容貌の美として表現しており、現実の日本の服飾にも、装いの美を容貌の美とした美意識があったように思われる。江戸時代までの日本において、容貌の美を構成する服飾に花模様が多用されたことは、容貌の美・ひいては心の美を花に喩える美意識からきていると考えられる。特に女性(または文化的に女性的な存在であった稚児)において、服飾の模様または絵画の画面上に花が添えられる状況というのは、その人の心身の美質を代弁しているのではないか。日本の服飾において花とは、『文化史上の女性的存在』という記号を示す表象である、ということができよう。

総括


日本のきものには、素肌の垣間見というエロティシズム、身体の存在感が脆弱であること、中性・未成熟性、裸体の荘厳という機能がある。これが、西欧における服飾上の日本趣味(ジャポニスム)に影響を与えたと考えられる。刺青のような裸体芸術の一環ともとれるその存在意義は、仏像の美に通じている。

結論

 日本趣味(ジャポニスム)のもとになった日本のきものは、花を纏う神仏のような姿を、文化の上続けており、それは社交上の遊戯の諸形式として、場に華を添えてきたのである。

参考文献

『世界服飾史』深井晃子,美術出版社,1998
『ファッションとアート 麗しき東西交流』横浜美術館・京都服飾文化研究財団,2017
『きものとジャポニスム:西洋の眼が見た日本の美意識』深井晃子,平凡社,2017
『ヌードの美術史』美術手帖,美術出版社,2012
『刺青とヌードの美術史』宮下規久朗,NHK出版,2008
『日本の美術8 小袖からきものへ』長崎巌,至文堂2002 
『肉筆浮世絵大観(2) 東京国立博物館2』小林忠・長崎巌,講談社,1995


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