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思い違い
「ごめんなさい、ご自分のペースで行ってください」
「わかりました。気をつけていらしてくださいね」
なぜまりかは、このやりとりだけで彼女に嫌われたと思ったのだろう。
彼女は疲れたから先に行ってと行っただけなのに。
まりかの認知機能はどこかでそれを曲解し、「あなたとは口も聞きたくないから先に行って、いまなら私が疲れたせいにしてあげるから」と、翻訳してしまったのだ。
まりかはこの日、ひとりでバスツアーに参加していた。
最初の結婚をする前以来、実に四半世紀ぶりのひとり旅である。
静岡県の寸又峡という秘境にある、夢のつり橋を渡るツアーだ。
全長90メートル、湖面からの高さ8メートル。
某旅行サイトで「死ぬまでに渡りたい世界のつり橋100」に選ばれたこともあるという。
ホームページで見たこの湖水の色を見て、無性に行ってみたくなった。
ツアーバスを降りて、昼食をとった旅館から歩くこと30分。
途中から転げ落ちそうな急な階段を下り切ると、エメラルドグリーンにインクブルーを溶かしたような、美しい湖面が現れる。
接岨湖というダム湖だ。
険しい山間にかかる長いつり橋ゆえ、風があったり、雨で板面が濡れて滑りやすかったりすると、渡るのは難しくなる。
直前まで降っていた雨は奇跡的に小止みになり、細いつり橋を歩くに耐える条件がそろった。
バスでたまたま隣になった、おそらく同年代の女性と声をかけ合って、連れ立ってつり橋を渡った。
足元は不安定だし、手すりがわりのロープから手を離すことはできなかったけれども、すいこまれそうなブルーの湖面と新緑に祝福されるように、一緒に渡りきった。
「渡れましたね!」
「渡っちゃいましたね!」
「雨、上がりましたね」
「奇跡みたい」
名前も知らないどうし、小躍りした。
旅先の高揚感かもしれない、不思議な連帯感があった。
つり橋は湖面から9メートルほどの谷底にあるから、当然、温泉街に戻るには山道を戻らなくてはならない。
急な階段が304段。
舗装されたり、鉄板でできたりしているとはいえ、一段一段の高さもあり、けっこうな運動量だ。
足を運ぶごとに、ふくらはぎから太ももにかけて、緊張が走る。
美しいものでお腹を満たしたあとの腹ごなし、というところだろう。
一緒に来た女性は、最初は5段、それから7段、10段とまりかから離れていった。
振り返ると、膝に手をついて大きく息をしていた。
紺色のナチュラルテイストの袖なしワンピースに、コットンのカーディガン、軽めのスリップオンを身につけた彼女は、さぞ歩きにくいだろう、と、まりかは思った。
「ごめんなさい、ご自分のペースで行ってください」
そう言われて、まりかは拒絶された気分になった。
どうして? と、思った。
たいして話もしていないのに。
仕方がない、まりかもひとりの方が気楽ではあるからと、軽くあいさつをして歩き出した。
304段を上り切ったころには膝が笑い、息がきれ、おろしたばかりの無印のシャツを汗がしめらせた。
温泉郷へ戻る途中、先ほどのつり橋を見下ろすことができた。
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彼女に先に行ってと言われて突き放されたことは少し引っかかったけれども、この美しさにはすべてのマイナスな感情が吹き飛んでしまう。
そんなこともあるさ。
まりかは、曇った気持ちをすべて、いま来た山道に置き去ることに決めた。
昼食をとった旅館に戻ると、集合時間まで1時間弱。
美人づくりの湯といううたい文句の温泉に浸かることにした。
五十路のいささかたるんだ、でも抜けるように白い四肢をお湯に浸し、なぜまりかは嫌われたのかをぼんやり考えた。
いけない、負の感情はみんな、置いてきたでしょ?
まりかがどんなに考えたって、彼女の気持ちはわからない。
わざわざ自分で自分を痛めけることないでしょ?
火照る体を汗ばんだジーンズとシャツに突っ込んで、バスに戻った。
すでに隣には、つり橋を一緒に渡った女性が戻っていた。
まりかを拒絶したのかも、と思うと、少し気まずかったが、ほかに座る席はない。
「体力、おありなんですね。
私、ぜんぜん動けなくなっちゃって、自分の体力のなさに唖然としちゃいました」
まりかが座るのを見届けた彼女のことばに、目を見開いた。
彼女は、まりかをこばんだつもりはこれっぽっちもなくて、ただまりかの歩くペースについてゆけない、それだけだったのだ!
彼女のモーヴ色のグラデーションがふんわりと乗せられた目元は、真剣に微笑んでいた。
思えばまりかは、いつだって自分が嫌われ者だと思い込んでいるふしがある。
その場の空気が悪くなれば、すべてがまりかのせいだと思ってしまう。
なぜかはわからないけれども、小さいころからそうだった。
父と母が妹ばかりかわいがるのも、姉妹喧嘩しても理由も聞かずにまりかだけ怒鳴られるのも、まりかが悪いのだ。
みんなみんな、まりかが悪いと思いながら、51年間生きてきた。
でも、いまこの瞬間ならまりかは言い切れる。
その99%は思い違いだ。
だれもそんなにまりかのことを嫌いはしない。
こばんだりもしない。
彼女の笑顔が、そう教えてくれた。
タカシとの短い恋も、そうだった。
なかなか連絡がなかったり、そっけなかったりする彼に嫌わられたと思い込み、勝手に恋を終わらせてしまったけれども、もしかしたら彼は、まりかを微塵も嫌っていなかったかもしれない。
おそらく、その前の恋も結婚も。
「あはは、私、体力なんてないです。
気持ちが弾んでいただけ」
まりかは、そう言いながら笑い飛ばすふりとして、思い違いだらけのまりかの人生を笑い飛ばした。
人生のうち、ほんの数時間だけ共有したこの女性に、まりかは一生感謝するだろう。
まりかを思い違いから救った、この微笑みに。
そう、みんなまりかの思い違い。
おばかさんなまりかの思い違い。
まりかが悪いわけじゃない。
そうじゃなくても、それでいいじゃん。
まりかはだれよりも幸せになるのだから。
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