秋草と夏帽子
「この年になって、病院を逃げ出すことになるとは」
利朗は病院からそう遠くない公園のベンチで、水色やピンクの帽子をかぶった幼稚園児が一生懸命走るのを眺めていた。ビー玉が弾けるように散らばる子供達を先生達が追いかける。
「はあ、まだ暑いのにご苦労なことだ。こちらまで喉が渇いてくる」
水飲み場へ行くと幼稚園児の一人が手を洗っていたが、利朗に気づいて急いで場所をあけた。
「有難う。気が利くね」
足元に紅色のつぶつぶとした花が散らばっていた。誰かがおままごとで遊んだらしいイヌタデの花を、昔、子供達は赤まんまと呼んでいた。赤いリボンの付いた麦わら帽子に草花やドングリを沢山入れて一緒に遊んでいた、あの子も今はそんなものに目もくれない。
「仕方ないか。もうじじいと遊ぶ年じゃないもんな」
少し感傷的になりすぎたなと、気を取り直して歩き出す。神社にでも行ってみるかと知り合いの多い商店街を避け線路沿いの道を歩く。耳が遠くなったせいで自転車が後ろから猛スピードで追い越して行くたびに肝を冷やす。
二百メートルくらい先にやっと神社の青々とした杜が見えてきた。
「ああ、あの日も暑かった」
麦わら帽子いっぱいのイヌタデの花を、床に撒き散らして叱られた孫の、のぞみと怖い顔で掃除する娘の鈴子を交互に見て、祖母の祥子は思わず噴出した。
「のぞみちゃん、そんなに野良猫に食べさせたかったの?」
「うん、餌どうぞしたかった」
言いながら目に涙をためた。
「この間、動物園でモルモットとか兎に餌をあげたのが楽しかったみたいなの」
「なるほどね」
「じいじは?」
「じいじは、今日は水神さまのお掃除に行っているのよ」
「じいじのところに行く」
「帰ってきたらみんなでお昼ごはん食べましょうね」
祥子は取り成すように言うが、のぞみは鳥のような唇でそっぽを向く。
「じゃあ、時間を見てじいじを迎えに行こうか。お母さん、悪いけどいいかな」
「いいけど、大丈夫?」
「うん、先生から安定期に入ったし、少しは歩いたほうがいいって言われているから」
公園へ行こうかと、イヌタデの花を玄関先ではらって帽子をかぶらせる。
「行ってきまーす」
二人はてくてくと徒歩五分の公園に向かう。のぞみは買ってもらったシャボン玉液を首にぶら下げて上機嫌だ。
「暑いねえ。日陰を歩こう」
「ブランコ乗る」
「こら、急に走らないの。シャボン玉、危ないから頂戴」
「押してえ」
「はいはい。掴まっていてね、せーの」
ブランコに乗ったのぞみの前髪が風に揺れた。
「あ、じいじだ!」
「えー、本当?」
「今見えたもん。何か持ってた」
ブランコからは降りず、もっと押してというので、汗だくになりながら背中を押す。
「滑り台すべる? シャボン玉は?」
「やだ、あっちっちだから」
滑り台も砂場の砂も熱されて、子供達が寄りつかなくなっていた。
「あ、ちょっと待って。ばあばから電話だわ」
「電話でる!」
少し待ってと袖を引っ張るのぞみを静止しながら電話に出る。
「お母さん、どうしたの。え? 猫? 病院に? うん分かった」
「猫? なに? かわってー」
「じいじね、間違って罠にかかっちゃった猫を病院に連れて行くんだって。だから、神社に行ってもじいじいないの」
「わなってなに?」
「えーっと、野菜を食べちゃう動物を捕まえて・・・・・・」
「猫まんま食べる?」
のぞみの頭の中はすでに猫の事で一杯のようだ。
「え? 猫まんまは良いけど、赤まんまは食べないよ」
「やだー」
ふうとため息をついて、小高い山に向かって走り出したのぞみをゆっくり追いかけた。
「おかえり。たくさん遊んできたね」
「猫は? じいじは?」
「先に手洗いでしょ」
鈴子に背中を押されて渋々洗面所に向かう。
「ねこねこねこ!」
「こら、手がまだ濡れているでしょ」
「じいじ、見せて」
手招きで呼ばれて段ボールの中を覗き込む。
「赤ちゃん? ちっちゃいねぇ」
「あら、本当。子猫なの?」
「それがはっきりとは分からないそうだ。野良猫は家猫と違って栄養失調になりがちだから年齢は分かりにくいらしい」
「お父さん、どうするの? 猫」
「うちで引き取ろうかと思ってるんだ」
「昔飼ってたものね」
「いや、あれは図々しい野良猫が家にいついたんだ」
のぞみは指の腹で遠慮がちに撫でたが、猫は特に嫌がりもせず、すぐに寝息をたて始めた。
「こいつも、負けず劣らず図々しいな」
小さな鼻ちょうちんを作る猫の顔を皆で笑いながら見ていた。
そんな小さな出来事を積み重ねて、日々は流れていったのだと利朗は寂しさの中にも満足感を抱いていた。
「あ、やっぱりいた。病院に戻ろう」
どこかで摘んで来たイヌタデの花を手に持ったのぞみと妹のはるなが、神社の拝殿前にいる利朗に声をかける。
「じいじの分まで長生きしてよ、利朗」
のぞみがそっと抱き上げて膝に乗せると不機嫌そうに「にゃあ」と鳴いた。
「暑いねえ」
セミがぽとりと足元に落ちてぶーんと回った。それを見て、ぴしりと前足で捕らえる。
イヌタデの花を帽子に入れる二人を見て、猫又になるくらい長生きするのもいいかもしれないと利朗は思った。
(了)
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