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死にかけた私と存在しなかった友だち

自分の人生について書くと言ったが、さて、どこから手を付けたものかと戸惑っている。自分で広げた風呂敷のでかさとその解像度の不安定さがすごい。

人生を時系列で語ることがこの場合適切だとは思えない。だが、手始めに自分が記憶している最古の自分の思考を書き記そうと思う。

時はおそらく1994年ごろだろう。1991年に生まれ、3歳になる年に私は川崎病という全身の血管炎症を引き起こす病気にかかった。おそらくはこれがきちんと語ることのできる最初の記憶だ。(ビジョンのみ残っている風景のようなものは除く)

連日酷い高熱にうなされ、かかりつけの小児科に行った。看護師の叔母もこれはただ事ではないとすぐに大きな病院へ行くことになる。川崎病だとわかった私は数週間入院することとなった。

入院中には年の離れたいとこがお見舞いに来てくれた。病院で退屈していないかなどと聞かれた記憶があるが、幼少期の私は極度の人見知りだったため、貰った色鉛筆のお礼を言うだけで精いっぱいだった。病院では調子が良くなってきて父と病院内を散策するなどしていた。自動販売機でピーチジュースを買ってもらい飲んだ。

大部屋の向かいのベッドに同じ年頃の男児が入院していた。名前はたくま君。50音を覚えるための知育玩具で私が遊んでいるとき、母がたくま君の母親と話していた。しばらくして私とたくま君はしばしば一緒に知育玩具で遊んだりもした。

私の予後は良好で、それから数年は1年に1回検診に行くだけで済んだ。

退院後、祖母の家に連れていかれた私はそこで初めて妹の存在を認識する。私の妹は2個下なので正確には私が入院するより前に生まれていたはずなのだが退院後に突然「これがあなたの妹よ」と説明されたような印象だった。妹というものが何なのか、どのように接するのが最適解なのか、わからないまま妹との関係は始まっていく。

その頃私の実家は市営アパートだった。幼稚園にはまだ通っていなかったが、近所の年の近い子たちと遊ぶのが常だった。だが私はここでも人見知りを発揮。なかなか友だちを作るに至れず、しまいには年上の子たちから煙たがられる存在となってしまう。そんな中でも上の階に住んでいた「たくま君」とは仲良く遊んでいた。そう、大部屋で一緒だったたくま君である。

たくま君とは一緒に折り紙をしたり窓越しに会話したり、インドア派な遊びをしていた。だがある日突然そのたくま君は姿を消す。ぱったり姿を見せなくなったのだ。

私は母に尋ねた。
「上の階のたくま君どこ行ったと?」
母は答える
「上の階?ずっと空き家やかね。なんば言いよっと」

なるほどねぇ。(笑)

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