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公園で見た「オタ芸」に私の祈りをのせて

あれは「ダンス」よりも「舞」という言葉の方が似合うな。


なんて、身勝手なことを考えながら、日がとっくに落ちてしまった夜道を歩く。気が付けば、行く道で感じていた、心臓をコンクリートにこすりつけているような閉塞感はなくなり、目線は足元ではなく、数メートル先に歩いている人に向けられていた。


久しぶりに訪れた公園。部屋にいてパソコンに向かっても、何も思い浮かばないし、進めたい文章も進まない。ただただみぞおちが下に降りていくような気持ち悪さを感じた。これはあかんと、慌てて外に出た。いつもなら本屋や図書館に向かうけれど、今日は日曜日だから人が多いし、もう少し静かな場所に行きたかった。


あてもなく歩いた結果、たどり着いたのは小学生のころに訪れていた公園だった。

あれ、こんなに広かったっけ。あれ、こんなところに遊具なんかあったっけ。あれ、ここ大きい池があって、その近くで水遊びできたはずなんだけど…。遠い記憶をまさぐりながら、公園を歩く。それだけでも、閉塞感に満ちた気持ちを少し柔らかくしてくれた。


とろとろと歩いていると、少し大きな広場に出た。円状の広場になっていて、下の半円に沿うように灰色のれんがでベンチが作られている。そのベンチに沿うように若い男の子たちが自転車を止めて、楽しそうに話していた。

いいなあ。今高校生くらいかな。いい天気だし話しているだけで楽しいよなあなんて思いながら通り過ぎる。散歩は行くあてがないから散歩というもので、私にそもそも目的地はない。気分に任せて来た道を戻ってみた。その時に目に飛び込んできたのが、彼らの「舞」だった。

まっすぐに腕を伸ばし静止したかと思うと、すぐ風を巻き起こすようにぐるぐると腕を回す。と思ったら、次は空気を裂くようにすばやく横に腕を伸ばす。そんな動きが次々に繰り出されて、その周りの空気が動きが見えるようだった。その人だけではなく、その周りの空気も一緒に舞っている。なんて美しいのだろう。そう思った。


私は中学時代の文化祭で同じ動きを見たことがあり、それが「オタ芸」と呼ばれることを知っていた。
はじめてオタ芸を見たその文化祭のときも、すごくかっこいいと思ったことを覚えている。その踊りをしている子が普段おとなしい子だったからという意外性のフィルターもかかっていたかもしれないけれど、暗い体育館の中で線を描くように光るサイリウムの光は、今でも忘れられないくらいきれいだった。


そんな記憶を反芻ながら、「これはダンスではなく舞ということばが似合うな」と思った。もちろんこの2つの文字の意味は「体を使って踊ること」であるから、あんまり意味は変わらないのだけれど。オタ芸にはなんだか「祈り」がこもっているような気がした。

「オタ芸」という言葉は知っていたけど、実際調べたことがなかったので、ググってみた。

オタ芸(オタげい)とは、コンサートなどにおいてファンが繰り広げる、独特な動きを伴う踊り、ダンス掛け声のことである[1][2][3]。文字通りアイドルオタク(追っかけ)等がアイドルや声優などのコンサート・ライブなどで行っている、アイドルのために捧げる応援の芸(パフォーマンス)、応援方法である[4]。
                     (Wikipediaより抜粋)

どうやら、オタ芸とはアイドルを応援するために始まった踊りのよう。応援の仕方は様々あり、声援では「オタ芸」といい、踊りでの応援は「ヲタ芸」と名称が変わるらしい(これもWikipedia調べ)。


私の中での「ダンス」のイメージは自分の内側から出てくるものをあふれさせるように踊るイメージ。だから、あくまでも自分から始まり、自分で終わる。自分の表現したいものをが「自分の表現として生まれる」そんなイメージだった。

でも、ヲタ芸は何か違った。その踊りに「個人」が見えづらいのだ。
あくまでその人主体ではなく、目の前にいるアイドルのために、その人に自分の気持ちを伝えたいから舞う。さらに、オタ芸はどうしてもサイリウムの光に目が行ってしまうから、踊っている人に目がなかなかいかない。でも、よくよく見てみると、絶対不自然であるだろう足の広げ方で、目線まで合わせている。見えないところまで揃え、でもそれを過剰に見せない奥ゆかしさを感じた。

どんなことでも「個人」がすぐ表出するこの世の中。豊かな表現がすぐ見つけられるようになったことで、少し世の中は楽しくなったのかもしれない。でも、個人にフォーカスされればされるほど、1つの表現が、行動がその人の存在に直結する。個人が表現し、個人に帰ってくるということは、どこか逃げ場がないようで、中途半端に表現をしてはいけないのではないか、なんてハードルを高くしてしまう。


伝わらなくても、何か伝えたい。でも結局何を伝えないのかわからない。だけど、わかってほしいと受け手の察する力に押し付けることは紛れもない暴力だ。だから、自分の気持ちを言葉ではなく、「祈り」として舞う。自分の想いを正確に伝えられなくても、外に出すことで波紋のように何かが伝わるかもしれないから。そんな誰にも負担をかけない表現が愛おしく思えた。


どうかこんな臆病な私でも、自分の思っていることを表現させてほしい。言葉にならない思いをそのまま拾い上げるのは言葉ではない。でも私はなんとか拾い上げたい。言葉にすることで見えなくなるものもあるから。

彼らが誰のために舞っていたのかは知らない。というか、誰のためでもなくただ文化祭のために練習していただけかもしれない。でも、彼らの姿に私は勝手に励まされ、救われた気がする。私は勝手に彼らの舞に自分の祈りをのせていたのかもしれない。

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