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≪わたしごと45≫日本語と英語

日本語で考える時と、英語で考える時と、思考の結果は変わるのだろうかとふと思う。言語はツールだとしたら、道具が違えば作られるものも違ってくるはずだ。

イギリスに10年以上住んでいても、私は殆どの場合思考は日本語だ。英語で話しながら他の人と考える時は英語だが、未だに数は日本語で数えないと訳が分からなくなってくる。

英語はどのように日本語と違うのだろう。ぱっと思いつくのは、人を名前で呼ぶところと、丁寧に言う言い回しはあるけれど、日本語の敬語とは違う事、こどもにも大人が話すように話す事と、"make sense" と "fair enough"が重要な所。文章毎に主語がある事と、あとやっぱり、リーゾニングだと思う。

人を下の名前で呼ぶとまずフレンドリーに感じる。年上の人と話してもこどもと話しても大して話し方が変わらないというのも、言っている事に理屈が通っているかどうかで見られる事も、どうしてそう思うかがいつも理由と共にあることも、常にその人個人個人に立っているからの事だと思う。

とここまで書いて、これは言葉どうこうというよりも、文化的要素だなと思えてきた。フラットであること、ロジカルであり理解可能であること。理由をもとに相手に伝えること、他人は自分と違うということ。

逆に日本語は、曖昧さを含んでいたり、敬語や語尾にその人の立ち位置を推し量るものを入れたりする、とっても属性の強い言語だなと思う。なので、ハイコンテクストだ。

これは異文化コミュニケーションには便利ではない。私が経験したことだと、説明しないと他人は自分を理解しないという前提に立っていないので、反論や異論を攻撃や否定と取ってしまう場合や、自分の文化が自分の中で言語化されていないので、伝える以前に認識してないなと痛感する事が多々あった。

しかし、言語はツールなので、場合によって日本語の便利ではない部分は変えるか、ほかの要素や考え方を他の言語体系から借りてくれば良いと思う。それに、日本語は、優しくて美しいところの多い複雑味のある言語だと思うので、寧ろもっとしっかり日本語を使えるようになりたい。

ハイコンテクストを持ち合わせた日本人が、もっと意識的に自分たちの文化を見直して、認識したり、言語化したり、表現したりすれば、なにか醸成された結構異質なー世界がギョッとするかWowと言うかは知らないけれどー何かが出てくるはずで、その過程で日本人が日本をもっと好きになれば良い。

日本語と英語とでは思考の結果は変わるのかという問いにここで立ち返ると、日本語と英語の文章の体系が違うので、恐らく思考の展開の仕方は違ってきている様に思う。言葉の概念が違うものや日本語には無いものもあるので、そこに影響されるというのもある。

小さなテーマを決めて英語と日本語で話して録音してみると、感覚的には英語で話している時の方が、問題解決的でじゃあどうしたら良いかという方向に向きやすく、日本語で話した時はもう少し情緒的で内省的になりやすかったが、これは個人的な事かも知れない。

いずれにしても、使っている言語とその言葉の概念が、どう考えに影響していて、どうしたらそこを超えて発想していけるかという所は、他の言語体系を織り交ぜるとすこし柔軟になるような気がする。もしかしたらそれは言語だけではなくて、アートということも入って来るのかも知れない。

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