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≪わたしごと75≫学びと接合とイノベーションと

デザイン思考、アート思考、STEAM教育など言われていて、アートを通した学びが注目されている。これらはどちらかと言うと、"アートが役立つ" というコンテクストなので、アーティストを育てる為のものでは無いが、その過程で何かを拾って、つくりたいという衝動に繋がっていけばいいな、とは思う。

思い返せば、小学校の時一番好きな科目は図工だった。課題が出されているので、それを一番に終わらせて、残りの時間で余りの材料をつかって好きなものをつくるのに全力をつかう、ちょっとズレた子だった。

図工で楽しいのは、想像したものが出来て現れることだが、まったく思いもしない方向に行く事もある。それも楽しい。閃きを実行するのがわくわくするからだ。なぜ思ってもいない方向に行くかと言うと、それは多分素材があるからだと思う。

どういうことかと言うと、例えば木や紙、粘土やフィルムは全て違う特性を持っている。なので実現できる形とそうでないものがある。出現させたいものと素材がそうさせてくれることの狭間で、いろいろな問題にぶつかったりする。

薄いフィルムをシートそのままで立たせようとしても、ふにゃふにゃで立たない。どうするかと考えると、それは丸めて筒状にする事かも知れないし、何かにつるす事かも知れないし、フレームを付けて立たせることかもしれない。

学びは多分こういう所にある。紙は水につけるとふやけるんだな、粘土というのは好きな形が作れてくっつくんだな、木は削れて細いと曲がるけど太いと曲がらないんだな。

そういったものに触れる時、自分のやってみたい事というのは、そこから想起されたりする。また一つの特性を知る事は、他のソリューションにつながる。細い枝はそれ自体では立たないけど、粘土は塑性があるので、そこに突き立てれば立つかもしれない。もしかしたらそこから、もう一本枝を上の方で粘土を使って組めば、フィルムをつるせるかも知れない。誰かがひもを使ったら?とアイデアをくれて全く別のものになるかも知れない。

私は接着とか接合って面白いなと思う。粘土はそれ同士くっつくけど、紙はくっつかない。じゃあどうすると言ったら、糊やホチキスを使ったりする。これらは私たちが経験から学んだ事だ。鉄というのは高温で熱するとそれ同士は接合するけれど、木は熱してもくっつかない。どうするかと言ったら、宮大工の様に嚙合わせるか、くぎを打つか、もしくは繊維状にしたら紙の様に繊維が絡み合ってくっつくかもしれない。

そういう接着の事をずっと考えていくと、結局はその分子や原子の間で物理的もしくは化学的結合が起きているんだなと気づく。糊と言っても粘着質のあるねばねばした分子というものは無くて、分子間の電子の引き合いだ。分子が長いと引き合いが強いのでねっとりしたり、短いともうすこしさらさらしたりする。

素材と自分との間で繰り広げられる問題解決の過程で使う思考は、おそらく複雑だと思う。それは素材を観察また体験して理解した、自分のやりたい事と出来ない事、そのギャップが生み出す。そのギャップをどうするかに、ほかに学んできた事を総動員させてみる。

私たちは太古の昔から学び、それを生活に生かしている。メソポタミアのシュメール人は5000年以上前に、粘土にものを押し付けると模様が残ることを使って象形文字を粘土に残した。粘土のまま残して置くと保存が効かないので、それを天日で焼いて固くすることを学んだ。

私たちは、太古からも、日本の伝統文化からも、日常生活、お隣の人、もしくは全く知らない海外のウェッブサイトからも、リファレンス、発想、学びを引いて来れる。

学びと学びの接合は面白い。それは基本、木を粘土に立てる事を私たちが学んだ過程に似ている。接合と言ったけれど、混合や習合かも知れない。それが、だれもやっていない結合だった場合、それをイノベーションと呼ぶのだろうと思う。

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