見出し画像

≪わたしごと72≫オープンな学習回路と本当の意味の「和」

安冨歩さんが書かれた "超訳論語" という本を読んで、思考がかき回された。特に序章に要約して大切な事が詰め込まれていたのだけれど、noteに学んだ事、考えたことを少し書いてみたい。

論語の冒頭の言葉が論語の思想を表している、と著者は言う。

学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。

私が驚いたのは、一見逆説的に、学ぶことは危険な行為だと論語の中で捉えられていていることだ。学ぶことが危険なはずがあるだろうか、と思ったのだが、思えばそう感じた時期が私の中でもあった。アーティストになりたくて、いろいろ美術史を読んだり作品を見ていた時、結局自分は何者で何がしたいのか分からなくなって、無力感を感じた。正に序章にあるように学んだ事に "振り回されて" いた。

学ぶことが危険な行為になる理由を "自分の感覚を売り渡すことになるから" と説明している。ではどうすればいいのかというと、修練して学んだ事を本当の意味で理解し、自分自身のものにする事が大事という。それを "習う" と言って、それそのものが悦びである。また人間とは習う事によって主体性を回復することに大きな喜びを感じる生き物だとも言っている。これは、実体験として納得できる。何かを習得した時、出来るようになった時、分かるようになった時は、無条件に嬉しい。

その学び習うサイクル、学習回路を開いている状態が「仁」であり、仁である者を「君子」と呼ぶとある。逆に学習回路が閉じた状態を「悪」とし、そうであるものを「小人」というとある。

 これを読んだ時、菊と刀を書いたルース・ベネディクトの考察を想い出した。日本人が捉える世界観は "善と悪が戦う戦場ではない" というものだ。

人間の心にはもともと悪は存在せず、そうなってしまった状態があると捉えるのは、逆にいうと回復可能という事だし、水に流せる、また錆びを落とせるという事かも知れない。論語の文脈でいうと、学習回路を開けば良いという事になるだろうか。

その学習回路を開いている者同士の間で、コミュニケーションが成り立ち、双方が共に学び合いながら成長していく事で達成される調和を "和" というとある。和であることによって初めて本当の意味でのコミュニケーションは成立するとあるが、ここを読んで日本人の一般に理解する "和" とちょっと違うなと思った。

人との間でのコンテクストでいうと、日本人が言う "和" はハーモニーの調和の和ではあるかも知れないが、学び合いながら成長する事を前提とはしていない気がする。どっちかというとイメージ的にはあたたかい、やさしい、その反面同調的という側面もあるだろう。

"同" について書かれた部分もあって、"学習回路を閉じている小人は対立が苦手であって乱を恐れる。それゆえ何らかの記号や意見や形式や規則を共にすることで同調し 乱 を防ごうとする" とあったが、最近よく聞く同調圧力とはもしかしたらこういう仕組みで起こっているのかなとも思った。

でももしそれが理由なら、それを回避する方法は、学習回路を開けばいいという事になる。学び習うプロセスでよろこびを感じながらコミュニケーションしていき、共に学び合えば、それは本当の意味で調和し、成長するという事だ。

多様性、ダイバーシティー、インクルーシブなどのワードが社会に出てきているが、みんな違う多様性を "乱" を起こすものとして防ぐ目的で記号や形式で片づけてしまうのではなく、本当の意味での学びのチャンスとして、コミュニケーションし実践する社会になれば良いなと思う。




ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?