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≪わたしごと78≫Happiness と Joy

"喜びの書" というダライラマと大司教ツツの対話を収めた本をしばらく前に読んで、書きかけだったnoteの続きを書こうかなと思う。

幸福論や、幸せって何?幸せになる方法というお題がある中、あえて "Joy 喜び" を高齢の2人のおそらく最後になるであろう対面の対談に選んだのは、どうしてなんだろう。 

私は昔から"幸せ"という事が、なにか心にしっくり来なくて、"幸せになる"という状態はさらに腑に落ちなかった。ちょっとひねくれているのか分からないけど、例えばサッカー選手になる様に幸せに"なる"事は出来ないし、幸せってそもそも瞬間瞬間のことだと思っていた。なので、幸せになりたいという願望は、達成不能のように思われたけれど、幸せをたくさん感じたいというのは可能かもしれない。

愛という言葉もそうだけど、普段の生活で使わない言葉は親和性がどうも薄いように感じる。心の中で少し違和感を感じて、少々使いにくい。英語でいう"Love"は、英語の文脈で毎日使う単語だし、家族との電話を切るときも、友達がバスに乗って去る瞬間も"Love you!"というので、使うのは恋人同士だけでは無い。"Happy"も毎日使われ、"Are you happy?" "という問いはしょっちゅうされ、happy to hear, happy to do, happy to see..いつでも使われる。

"~して頂けると、幸いです" という様な言い回しはビジネスにあるけれど、幸せですか?と聞かれることは、日本語の文脈であんまり聞かれない事ではないだろうか。

その点でいうと、嬉しいという感情や言葉は日ごろ使う。プレゼントを貰って嬉しいとか、逆に喜んでもらって嬉しいとか。何かが出来て嬉しいとか、思いが伝わって嬉しいとか。

嬉しい瞬間ってどんな時、という質問の方が、幸せなときってどんな時という質問よりも、ハードルが低い様に思うのだけれど、どうだろうか。知らない間に"幸せ"という概念が、大げさなものになっていないだろうか。

本の中には、"幸せは喜びの中に含まれる"と書いてある。喜びの概念の方が幅広いような印象を受けるが、それを私のなかで普段使いにすると、"うれしさ"がしっくりくる。

うれしいという感情が沸き起こるシチュエーションは、ありがとうとセットだったり、なんとなく人との間でおこる事のような気がする。対話やコミュニティー、シェアするという概念がますます展開されていく中、喜びやうれしさというのは価値体系の中心あたりに位置付けて良いように思うし、そこを中心に生きられている瞬間瞬間に、しっみじみと幸せを感じたりするものなのかな、とも思ったりする。

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