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≪わたしごと50≫工芸にふれる、工芸をさわる

工芸はとても触覚的だな、と思う。視覚でその素材のテクスチャーを想像させるし、それを触って確かめてみたくなる。

工芸だけには限らないが、手を使ってものをつくるという事は、ある種素材との対話のように感じる。私はガラスアートを学び、そのあとモザイク制作をして、現在保存修復で現在から作られた時のことに遡って考えるという、折り返しのような事をしているが、素材のコツを掴むというか、波長を合わせる、素材の気持ちになるという事と、無我・無心という事とか、一体感とか、何となく近しさを感じる。

たとえば、ガラスを吹くという時に、真っ赤な溶解炉にガラスを先に絡めたふき竿を入れたり出したりしているのを見たことがあるかも知れないが、ガラスの色と垂れる速度とで温度を見ながら、ちょうど良い時に空気を入れて膨らませている。冷ましてしまうと割れてしまうし、温めすぎると垂れてしまう。それを感覚と体感で拾っていく。陶芸のろくろでの成型などは、もっと手と直接的で、しかし素材の特性を体感で理解していくというのは同じだ。

工芸はもともと使うという事の中にあったので、触る・触れるということは、また触りたいとか手にしてみたいというのは、自然な事なのかもしれない。

日本という事を考えた時に、やはり海外でも職人的な緻密さや真剣さ、繊細さや美しさというのは魅力的だし、感嘆される。それと同時に道具というのも日本製のものも多く使われていている。こてや、筆、ナイフ、あとのこぎりは良く日本製のものを見かけるが、"引いて切るんだね、理にかなってるよね" という感想を何度か聞いたことがある。西洋のものは、押して切るから、力の掛け方が違う。

道具というのは、手の延長だ。道具を工夫し、改善する事に意識を持ってきている日本人の、その理由というか動機って何なんだろうと考える。   神道とか、命を吹き込むとか、はたまたより良くつくる、より便利に、もしくは自然に対する敬意とか。そんなことが古代と繋がって根底にでもあるのだろうか。

それは、車や他の製品にも反映されていて、そういったものづくりが海外に、日本というイメージにプラスと信頼を持たせている要因のひとつだと感じる事が多々ある。

感性や審美眼を育むには、たくさんのものを見て触れること、とはよく言われるが、実際に触覚的に知覚するということは、体感や体験となるので、ものとの距離が見るだけとは異なる。また作者の手に近くなる。すると想像力も湧く。

保存修復をしていて、その触れる喜びだとか、楽しさ、距離の近しさやドキドキ、ものを介して誰かや何かとつながる事は、多くの人も体験出来たら良いなと思っている。

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