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『天国と地獄』vol.1

1⃣僕は個人輸入とメルカリで副業をしながらフリーで挿絵をかいている。まだ本業一本では生活できないが、大きな不安に襲われずに済むのは副業の個人輸入とメルカリが期待以上にうまくいっているからではないかと考えている。収入の柱を複数もつことがスタンダードになりつつある時代に僕らはいる。
 おやじは僕を33歳のときに生んだ。おやじは僕に耳にたこが内耳から侵入し、肺にまで届きそうなほど繰り返し繰り返し言う。
「絵でなんぞ食っていけないぞ。うまいやつらなんて、五万といるからな。いい歳。どこか安定したところに就職するんだぞ。」
五万といる?そうやってあきらめるやつが5万といる、というのがより正確なのでは?いい歳って何だ?年齢でなにかするべきことが決まっているのは、義務教育ぐらいなものではないのか?安定したところ?それはこの地上にあるのか?
 親父の言うことは、それこそ何億回も世界中で繰り返されている内容なのだろうが、平成まるごとの33年分などではなく、おおよそ100年は古いと認識するがいかがなものか。それでも親父とはもう反抗期の10代とその親のような構図はとらない。と、大人ぶってみたが、ほんの数年前までは同じ土壌にたつのが礼儀だ、親父の意見を変えさせることが親父の支配に勝つことだといわんばかりに正面きってたてついていた。
 しかし、あるとき大きく解釈を変えた。親の心配やら懸念やらだけをぬきとり、それは愛情のなせる業なのだと、こちらが勝手にいいように翻訳し、それから距離をとった。なるべく気分よく居続ける、それを最優先にしただけのはなしだ。今まで何をもって争うようなことがあったのかと推測するに、理解されたいという願望が見えてくるのだが、そんなものは捨てた。捨てた、と一言で言えば、ごみ袋に紙くずを捨てるように簡単なものに思えるが、実際はけっこうな時間がかかった。親父のことを考える度に、『気分よくある』ことに価値をおき、最優先事項ととらえそのために補助になるような思考を探して選択した。
 随分と気分よくいられるようになったとき見えてきたのは、うちの親父は心配しなにがしかの叱責を加えることが親業だと認識しているということだった。僕の顔を見れば、自動的にその認識が言葉や行動となって出てくる、それだけのことだった。
 少なからず、会社務めを絶対視し人間としてごくごくまっとうな道だという価値観をこちらに向けてくるのは、自己肯定の意味合いも濃厚に含んでいた。以前なら、ジャッジのスケールをもって、”否”、それは個人的な価値観であって、僕は違うんだ、おしつけないでくれ、などとやりあっていたのところを、今は人間だからだれでもあることだとことなく流すのだった。
 親父は親父なりで今まで会社員で生きてきて、会社員であった自分自身の人生をよかったもの、なかなか人としてまっとうなものと受け入れたいのだろう。それに、実際にそうではないか。
 子供にしてみればおしつけがましくうつってしまうことを理解できるような人間ではない、それだけのはなしだ。
 このような親への考え方は当たり前と思う人にとっては当たり前かもしれず、なんの新規性もないに違いない。しかし、僕は随分とながい間、それこそ20代の半ばになるまでは簡単には真をもって受け入れることができなかった。会社員をやめて引っ越しをしたのだが、そのとき親もあきらめた。あきらめた、とは妙にきこえるかもしれない。しかし、その言葉がふさわしいように思えるのは、なぜかはわからない。あきらめた空間を生めるように、僕は親との適切な距離を得た。
 
 『親父の言うことを全部聞くことが、親孝行ではない。親父に理解してもらうのが、子の務めではない。』
これは、言葉の羅列にすぎなかった真言で、やっと意味を帯びはじめたのがそのころだった。

 絵だけで食っていけない、と?僕はまだ20代半ばを過ぎたところだぞ?この寿命120年時代に、まだ3分の一も達していない。この件に関してはあきらめるなんて思想は、これっぽちも僕に入り込まない。僕の人生だ。経済的自立は果たしてる。こきんどこに安定的な職場があるものか。

と、燃え上っていたし、今もその火は燃え続けているのだが、 会社をやめてから3年、閑古鳥が鳴いた。ある程度は予想はしていて、アルバイトを定期的にいれてはいたもののさすがに凹みに凹んだ時期もあり、絵筆を折るということも考えた。
「これは、陳腐か?」
「これは真新しすぎるか?」
「これは時代を移しているか?先どっているか?」
「これは人の心に入るか?」
「これは人になんらかのポジティブな心証を想起するか?」
これらの答えが、売り上げ数として返ってくるとしたら、どの応えにも該当するとは思えなかった。しかし、僕はなかなかにグリッドというものがあるのだろう。
「あと1000枚かくまではあきらめない。」
としたうえで、在宅でできる仕事として個人輸入とメルカリをはじめたところ、これがうまくいった。
 それから人の好みの動向を調べる、人気の画家さんからは謙虚に学ぶ、僕なりに改良も重ねた結果、今ではちょくちょくと 僕の絵に興味を持ってくれる人もでてきた。初心を忘れず、とはもともとは熟練したとしても謙虚に学ぶ姿勢を忘れないように、という意味だったらしい。出だしの僕などは、率先して学ぶべきだろう。
 ある日、一枚目が売れた。そのときの手が震える感動は僕にとっては天界から祝福の鐘がなるほどのものだった。それから、ちょくちょくと売れるようになった。
 オンラインではアート展示のプラットホームが日々進化発展している。手書きにこだわって時期もあったが、デジタルアート作品にも視野を広げたのが可能性を広げたのだろう。やはり手書きは好きだから、これも続ける。
 絵だけで食えない、たしかにそうだろう。僕の画力のある友人2人は、アニメーション業界のブラックさに疲れ果てて高給の中国へとそろって飛んだ。中国に出稼ぎに出る時代が来るというが、もしかしたら、これはそのはじまりだろうか。

 生きた時代が違う親父には言えないが、「安定」を求めて会社員勤めなどありはしない。かといって、派遣社員となるのならば会社員勤めをしたほうが随分と心理的にも余裕が出るのだろう。しかし、国は派遣社員という人間を増やした。上からおりてくるものは、どうしようもないのだ。
 僕らのようなアート系の人間は、どうやら社会不適合者といえるようなタイプが多いといえる。過敏すぎる、メンタルが弱い、時間を守れない、マイペースに過ぎる、独創性を重要視しすぎるなど社会人にしては偏りが強すぎる、課題にそれたことに夢中になってしまう、シンプルな事務処理に拘泥する、などなどだ。
  しかし、たいていの人はすぐには絵だけで食べていけない。そこで、絵心のある大勢の仲間たちはブラックなアニメ業界でへとへとになるか、他の業界で四苦八苦するかだ。順応するだけでも四苦八苦しているものだから、家に帰ってクリエイティブワークをするだけの気力は残っていない人が、大半をしめる。ベーシックインカムという構想があるそうだが、もっとも恩恵を受ける人種はアーティストだろうな。ほおっておいたら、なにがしか創る。
 しかし、そんな状況にもめげず頭角を現す人や大変な業界でも高い幸福度を保ちながら切り抜ける人も出てくると分析した絵仲間もいた。
「やりがいがあるから、がんばれる。」
「作品をみて、喜んでくれる人がいると思うと、がんばれる。」
「完成はないが、この作品に全力投球する。」
「この大変な時期から100を学んで成長する。」
などとめいめいの名言を掲げる人であるそうだ。
 まぁ、なんともきらきらした美辞麗句だ、と思わずにはいられないかもしれないが本気でそう思っている人、つまり信念レベルでそれらをとらえている人は生き残るそうだ。つまり、うわごとでもたわごとでもなく、内発的動機を強める文句として上記のような歯が浮くようなことを物語る人間が、生き残るのだと。たとえ、一度は労働搾取にあうような状況であろうとも筆を折るほど折れることなく、このような子供が言いそうなセリフを唱えつづける人は、高みにのぼっていくのだと。

 僕は、どうだろうか・・・。

 絵という表現で活動する道を模索し、技や表現力を磨いていることに内的な喜びを感じているし、同時に新しい副業の挑戦を続けようと思ってる。ずっと過程で、いずれ屈指の画家になってやるという野心のようなものも秘めている。
つまり、けっこういい線を言っているのではないか。
 表現活動に深みなり個性なりがつくことも考えられる。

と、恰好をつけているのだが、そんな僕は、外から見たらただのフリーターだ。

 ある日の昼2時ごろ、僕はメルカリ商品管理をしようとパソコンを立ち上げた。瞬時に僕はとある商品に目をとめた。何かの箱のようだったが、僕は買い物のためにメルカリを見るんじゃない、稼ぐためだ、と僕は間髪いれずに仕事にとりかかった。
 しかし、奇妙なことに翌日もその翌日もまたあのやたらと目を引くアイテムが表示された。僕に入ってくる視界情報の中でも際立って注力を引く。あれは、5日目だったかさすがに僕は凝視した。これだけ目を引くのだから、研究にはなると目を通すことにしたのだが、実のところ、いいねがついているのを見た事がない。
それは、髑髏がついた宝箱でRPGや異世界ファンタジー系の漫画で見られるようなミミックが出てきそうな木製の箱だった。
僕は、仕事の集中をそがれたようで少しいらだちをおぼえながら、半分やけになって商品説明欄を一読すべくその宝箱をクリックした。

『当商品00(ドラコニア・裟馬缶(さばかん 宝箱やめてこっちにする?やめとこ。)・雲表・八雲・磨如意門スター)にご興味をもっていただき、誠にありがとうございます。』
ふざけた名前だ。
『この商品に出会うことができる方はとても限られております。あなたは、100万人に一人に選ばれました』
それに、まるで詐欺の常套句だ。
『当商品は、体験型BOXでございます。
当BOXを付属の鍵で開くことで、あなたが見たい世界を自在に体験することができます。
このBOXをひとつご購入いただければ、次回からは、鍵をお買い求めになるだけで、また別の異世界を体験することができます。
ただし、その世界は必ずしもあなたの願望を反映するものではございませんので、ご注意ください。
例えば、お客様が美女に囲まれる世界をご希望されたとしてもご希望どおりの展開になるとは限りません。
また、鍵をなくされた場合は元の世界に戻れなくなることもございます。当社は責任を負いかねますので、重々にお気をつけください。』
ふざけた商品だ。
そう思いながらも僕の手は注文ボタンに触れていた。
2⃣
宝箱は、意外にもそのままの形で家に届いた。梱包はプロのそれといってもよく、ごくごく丁寧に包まれていた。そして、やたらとでかかった。僕の1LDKの住まいは、ミニマリスト、というほどでもないが、大きな机ひとつの上に絵描きの道具があるぐらいでものがほんどない。ソファさえもなく前の彼女がおいていったクッションがひとつおいてあるぐらいだ。ペンギン好きの彼女で、横から見た皇帝ペンギン(の赤ちゃん)で羽を広げるようにしているクッションだ。こいつがかわいいのか、彼女のことが忘れられないのかは判然としないし、追及しようともしないようにしている。
届いたばかでかい箱は、どくろもついてまるで棺桶のようだ。
僕は、添えらえていた説明書らしき紙を開けた。こんな大荷物のわりには、ペラペラの紙が一枚と、小冊子が一点。
『異世界体験ボックスの取扱説明書
お買い上げ、誠にありがとうございます。
当00は、お客様がかねてから見てみたいと願っている異世界を旅することができます。
案内人が注意事項を説明致します。
案内人は、付属の冊子から一人選んでください。
お望みの異世界へは、鍵の取っ手を握りながら鍵穴へ差し込んでいただくことで移動が可能となります。
それでは、旅をお楽しみください。
追記
異世界と申し上げましたが、
あなたが生きていると実感しているその地上こそが幻影です。』
なんだ、これは?要は、この髑髏の取っ手を握って天使の羽の鍵を開ければいいのだな。天使を髑髏に差す・・。いいのかわるいのか。

つづく~

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