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記憶の中の、彼・彼女達

学生の頃、バイト先にトランスジェンダーの先輩がいた。

更衣室が一つしかなく、女性が使う更衣室だったため、男性は休憩スペースで着替える様なバイト先だった。

彼女は身体的女性しかいない更衣室に入ってくることはなかった。

自分の性別と身体の性別についてたくさん考え、悩んできたからこそ、ホルモン治療をして、ブラジャーをつけるほど胸はあるものの、元々の身体的性別が男性である自分が女性だけのスペースに入ることの問題やリスク、そして身体的女性の私たちの気持ちを考えてくれていたんだと思う。

彼女は休憩スペースの一角にカーテンレールの着替え場所を店長に言ってつけてもらった。店長も快く環境を整えた。

私と彼女はほんの一瞬しか関わりはなかったけど今でも時折思い出すことがある。

また別のバイト先の店長にゲイバーに連れて行かれた事もある。

そこにいたのは身体的性別も自認している性別も男性で性的対象が男性で性表現が女性の人たちだった。

店員さんは他の客のお姉さんという声掛けに私はお兄さんよと言っていたので彼らという言葉を使おうと思う。

話してみて辛辣な物言いをする彼らをみてそれを喜ぶ店長。

彼らは客が喜ぶからリップサービスで辛辣な物言いをするのかなと思った。

また、一緒に連れて行かれたバイト仲間は彼らを恋愛のエキスパートの様な扱いをして恋愛相談をしていた。

店員さんはそれに優しく相談に乗ってあげていた。

占い師の様にその人の中にあるけど勇気が出ない本当に望んでいる答えをなんとなく察して、応援してあげていた。

大変な仕事だなと思った。

客はゲイバーにいる女性言葉を話す方々をどこか人生を分かり切っている仙人の様な扱いをしていた。

彼らも人間でありその辺にいる普通の人たちだ。

彼らも色々傷つき、悩み、陰でたくさん泣いてきたんだと思う。

この世界にはいろんな人が生きていていろんな人生いろんな生き方がある。

そして、私はこの事がきっかけという訳ではないが卒論で性的少数者と日本の性教育について研究した。

もちろんどの学校にも性的少数者はいるしクラスの中に2、3人はいるのだ。

いないと思っていても、言わないだけ。

別に言わなくたっていいのだ。

どっちでもいい自由。

それを認めようねっていうのが多様性だと私は思う。

その人がその人のままで生きられる世界。

この先の未来で、記憶の中の彼ら、彼女らに似た境遇の人たちがどうか泣いていません様に。


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