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【短編小説】迷子(後編)

「ねえ、わたしのことどう思ってるの?」
唐突にアイは訊ねた。飲み込んだ空気が石に変わったように、僕は何も言えなくなる。
「もちろん、なんとも、っていうのはナシだからね」
「それはどういう意味での……」
池袋西口公園内の木々に取り付けられたイルミネーションが青色に光っている。深い海の底にいるようだった。海底でゆらゆらと影たちが揺れている。そのいくつかは所在なさげで、たぶん僕もその一つだった。青い光が自身を透過し、胸の中の何かが反射して輝いているのを僕はなんとなく隠そうとしている。しかしアイはたやすくそれを見抜いていた。
 
「寒いよ」
アイはそう言って僕に体を寄せてくる。クリスマスのイルミネーションに染まったコートの柔らかな感触と、揺れる髪のにおい。僕の背中を汗が伝った。
「いつまで待たせるつもり」
何度も内で反芻してきた言葉たちは、シュレッダーを通り抜け紙吹雪みたいに脳内を舞う。
「ごめん」
 
彼女はそれを聞いて一歩、僕から離れた。そして遠くで淡く光る青い電飾の方を向く。一瞬のうちにアイは光に飲まれ消えてしまいそうな気がした。僕は距離を詰めて彼女の右手を握る。冷たかった。
 
僕はようやく言葉にする。アイはそれを噛み締めるように頷き、僕の二の腕のあたりをつねった。それから彼女は笑う。海底に一筋の光が差し込み、辺りが真っ白になった。
 
アイは僕に「メリークリスマス」と言って銀色のリングを手渡した。彼女の右手の薬指に光るものと同じだった。「わたしはあんまり器用じゃないし、心が急に不安定になることもある。だから私にはあなたが必要なの。こういうのって重いかもしれないけど、なんとなく、あなたがつけてくれる指輪が私を引っ張ってくれる気がするから」
 
---
 
思い出していた。ダムが決壊したようにあふれ出る風景を僕は見ていた。アイと出会ってずいぶん経つ。初めに惹かれたのは彼女の方だったと思う。大学生になって間もない頃だった。いや、やっぱり僕の方だったかもしれない。講義室で彼女の姿を探していた。右耳で光るピアスがいつもこの世界の中心みたいだった。渦のように僕はそこに飲み込まれ、彼女の半透明な感情で溺れていた。いつも物憂げな表情で前を見つめるアイの何かを知りたかった。
 
僕はほとんど走るようなスピードで歩いていた。息は切れなかった。体は羽のように軽い。でもちゃんと自分というものに意識を集中していないと、ほんの少しの風で飛ばされてしまいそうだ。あたりは徐々に朝らしい光で満たされ始める。寒さは感じない。暑さも感じない。汗も出ない。不思議だった。
 
家までもう少しというところで、右の頬に引っかかれたような刺激が走った。それが手の甲や鼻や頭のあちこちに続く。雨が降ってきた。頭上は分厚く排気ガスのような色をした雲で覆われ、再び陽が沈んでしまったように薄暗い。気づかなかった。そして急激な体の疲労に襲われる。今までの早歩きのツケがまとめて来たように息が苦しくなる。汗が噴き出す。しかし体温は下がり続ける。頭が痛い。雨は強くなっていく。僕の体とシンクロしているみたいに。
 
どこかで休んだほうがいいかもしれない。僕はあたりを見渡す。この突然の嵐を予測していたみたいに、通りは誰も歩いていない。車すら見えない。まったくの無人だ。シャツが濡れて張り付く。麻痺し、石化していく。そう思うくらい体が重い。本当に馬鹿げていて何の感情も出てこない。この不気味さすら帯びてきた状況からとにかく脱したい。アイの表情を夢の手前に置いて、そのまま眠りたい―
 
車道を挟んだ向こう側に簡易な屋根のついたベンチがある。そこならば雨の攻撃は防げそうだ。矢のような雨がひっきりなしに落ちてくる。きっとすぐにおさまるだろう。干からびた希望だった。あそこで休もう。僕は車の気配がまったくない道路を横切った。
 
たぶん数分だと思う。僕はベンチに座ったまま眠っていた。どれだけ外で寝たら気が済むのだろう。気分と裏腹に息は落ち着いていた。雨脚はピークを超えたようだがまだおさまらない。しかしいつまでもここで休むわけにはいかない。さあ行こうと立ち上がろうとすると、一人分ほど空けて誰かが同じベンチに座っていることに気づいた。
 
「運がよかったね」
あまりにもアイの声に似ていたせいで、僕は衝動的にその人物へ顔を向けた。真っ白な髪に顔が隠れていて、横からだとどんな人物かわからない。しかしアイではないのは確かだった。謎の女性は上下真っ黒なスーツをまとっていた。
「この雨は君を引き留めているみたいだ。もちろん、たった一人の人間に情を見せるなんてことはしない。だから君は幸運だろう。そしてまだ時間がある。君にはやらなきゃいけないことがあるのかもしれないね」
この女性は何を言っているんだろう?しかし声が出ない。音を消されてしまったように、口だけがむなしく動いている。立ち上がることもできない。金縛りのような感覚。
「私は君を探していた。自分の状況がわからず迷子になっている子を正しい場所へ送るのが私の仕事だからね。でもこの雨だとだめだ。天気は影響するんだよ。不具合があると取り返しのつかないことになる」
僕は黙って聞いていた。雨の勢いはおさまらない。
「まあ、そういう専門的なところは君に関係のない話だよ。人間にとって最も動かしがたい出来事の一つなんだ。君はこれから君の存在するべきところに行かなくちゃならない。だけどさっきも言ったようにまだ猶予がある。だから君は思い残したことでもすればいい。例えば君のように迷子になりかけている子を見つける、とかね」
女性は立ち上がった。顔は見えない。黒くどんな光も通さないようなスーツはどこも濡れていない。
「自分の立場を理不尽なんて思っちゃいけない。君は幸せ者だよ。見届けてくれる人間がいるんだから」
目の前を自転車が通過し、水たまりのしぶきが飛んできて顔をしかめた。すでに白髪の女性は消えていた。
 
「ここにとどまりたいと願う人間は、まだあちらへ渡る時期ではないということだ。君はそれを忘れちゃいけない」
雨音に紛れ、女性の声が響いた。まるで宿主に切り離されて地面にこびりついた影のようだった。
 
僕は自分がどうなってしまったのかを思い出した。僕とアイはあの夜、帰り際に交通事故にあった。僕はたぶん即死だった。だから今の僕は、生と死のどちらともいえない領域に漂っている。そしてもうすぐ、別の世界に行く。
 
僕には時間がない。
アイを探しに行かなくちゃならない。
 
雨は小降りになっていた。僕は再び家路を急ぐ。息があがる。先ほどのような体の軽さはない。僕の中心にあるのはもう「切なさ」らしき空洞ではない。ただ一つの使命だった。それだけで自分の形を保っていた。僕は人間を取り戻している。雨が一時的に僕を遠くの世界へやらないようにしている。だからアイのもとへ急いだ。
 
アパートの303号室。鍵は開いていた。しかし玄関にアイの靴はない。誰もいない。部屋の電気はついている。でも誰もいない。午前十時半。公園で目を覚ましてからそんなに経った感覚がない。誰もいない。
 
いや、誰かがいる。
 
僕の後ろ?振り向く。何もない。扉の閉まった玄関が見えるだけだ。そして正面に戻る。アイが目の前に立っていた。昨日二人で待ち合わせしたときに見たままの姿をしている。仕事終わり、フォーマルとカジュアルの中間の服装をした彼女。交通事故にあったはずなのに傷一つない。次の朝を迎えたはずなのに、彼女のどこにも変化がない。つまり、アイもすでに―
 
「わたしたち、死んじゃったみたいだね」
アイの声だ。そよ風のような声に僕は涙が込み上げてきた。ようやく彼女に会えたのだ。どんな形にせよ、このでたらめな状況に光が差し込んだような気がした。僕と彼女はそのまま抱き合った。彼女には体温があった。鉄が溶けて形を変えるように、僕は崩れそうになってしまった。僕があまりにも物体的な冷たさをしていることに気づいたのだ。
「寒かったでしょ。こんな時間まで一体どこに行っていたの」
「酔いつぶれて公園で寝ていたんだよ。君に怒られやしないかと、言い訳を考えながら歩いて帰ってきたんだ」
彼女は僕を抱きしめながら困ったような声色で笑う。
「本当にそうだったらよかったのにね。心配して、怒って、笑って、それから一緒にベッドに入る。それでこの事件は終わるはずだった」
彼女は態勢を戻して僕を正面に迎える。あのいつもの物憂げな表情をしていた。僕はここにたどり着くまでに、彼女のまなざしを何度も思い返した。レコードが擦り切れるくらい繰り返した。もう二度と見ることができないかもしれないから。
「アイは今までどこにいたの?」
「正直あんまり覚えてないの。夜中に二人してふらふら、綿毛みたいに歩いてて、鉄の塊みたいな車が私たちを吹っ飛ばしたでしょ。あれはたぶんあっちがヒャク悪いと思うんだけど、まあいいわ。気づいたらこの部屋にいたの。もう朝になり始めてた。私はあなたがいないことに怖くなって、慌てて外へ探しに行った。意識もはっきりしないままにね」
「どうして自分が死んでるって思ったの?」
「死んじゃったのに意外に冷静なのね。私もそうかもしれないけど。もうずっと体中が痛い。二日酔いもひどい。像みたいに体が重い。本当にくだらない最期になっちゃったわ。えっとそれで、誰もわたしのことが見えてないみたいなの。電話もどうしてかつながらないし。外の人の目の前で大きな声を出しても、肩を叩いてみてもぜんぜん反応しなくて。マンガの中にいる気分。つまり、これはきっと死んだんだなって」
彼女の話には自分と異なるところがあった。僕は目を覚ましてここへ向かう途中、どこにも身体の不調がなかった。その逆に、何でも手にできるような浮遊感すらあった。突然の雨に濡れる前までは。

「あなたがどこにいるのか教えてくれたのは、その指輪のおかげなの」
アイは僕の右手を指さした。右手の薬指には彼女がクリスマスにプレゼントしてくれたペアリングがいつの間にか光っていた。そしてアイも自分の指にはめている指輪を誇らしげに見せた。
「外で途方に暮れていたら、なんとなくだけどこの指輪が熱くなっているような気がして。指をじっと見つめてたら、どうしてかこの部屋で待ってるのが一番いいって思ったの。それであなたが来るのを待ってたんだよ。幽霊みたいに気配を消してね」
二つの指輪が僕らをつなぎとめてくれた。いや、正確にはアイを僕のもとへ連れてきたのだ。強引に。
「僕らはどうしたらいいんだろう?頭を整理しなきゃいけないかも。だから、ちょっと歩こうよ」
僕は彼女の手を取った。
 
外はまだ雨が降っていた。僕らは傘もささずに歩いた。僕はこの天気がいつまでも続くことを願いながら彼女の手を握っている。僕らは二人の今までを順番に話していった。やっぱり先に好きになったほうは僕だった。初めて喧嘩らしい喧嘩をしたときのことを、彼女はいまだに根に持っていた。僕はまた謝る。彼女は笑って「許さない」と言った。それから、

それから、
それから、
それから、
それから―

話は尽きない。
そうして雨は止んだ。僕は覚悟ができていた。
 
彼女は話の途中で黙ってしまった。二人はベンチに腰を下ろした。僕が奇妙な女性に話しかけられたあのベンチだ。今は何時だろう。分厚い雲の隙間からはしごのような陽の光が下がっている。アイは涙を流していた。僕は震える彼女の肩に腕をまわす。彼女の正常な体温に、僕の腕は焼けてしまいそうだった。
「まだまだ、あなたとの生活が続いたらいいのに」
アイはつぶやく。
「見て、話して、笑って、怒って、緊張して、泣いて、不安になって。歳を取ってそれがぜんぶ風化して、少しずつあやふやになって、まざって、それを幸せって言える日が来るのを、わたしはこの世界で待っていたい」

「ねえ、行かないで。わたしを一人にしないで」
 
僕は彼女の肩にまわした腕を外し、自分の膝の上に置いた。前方、空の向こうから僕に向かって光がまっすぐ伸びている。なんて暖かいんだろう。体は軽い。僕自身に形が必要ないかのように。
「ごめんね。僕はもうこの世界にはいられないみたいだ」
僕は自分の右手の薬指のペアリングを外し、彼女に渡した。アイを連れていくことはできない。この指輪があると、彼女も一緒にここから消えてしまいそうな気がした。
「僕はアイと一緒にいられて幸せだった。ほんとあっけない最期になっちゃったけど、悔いはない、と思う。うん」
アイは黙ってうなずく。たぶん、彼女も自分だけが死んでいないことに気づいていたのだろう。
「アイの体は抜け殻みたいに、君が戻るのを待ってるはずだよ。早くそこに戻らなくちゃ」
「自分がどこにいるかはうっすらと感じてたの。だからすぐ見つけられると思う。わたし、傷だらけじゃないといいんだけどなあ」
彼女は微笑んだ。

「いつか僕の思い出も薄れてぼろぼろになっていくと思うけど、アイのお陰で幸せな人生だったっていうことだけは覚えておいてほしい」

アイは僕の手を握ろうとした。しかしそれは空を切り、何にも触れることはできなかった。
「わたしも幸せだよ。寂しいけど、きっとこれからもそうだと思う」
 
「ありがとう。またね」
僕は眠気に襲われ、ゆっくりと目を閉じた。何か暖かいもので僕の中心は満たされていた。



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