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【短編小説】檸檬(ストロング)

「えたいの知れない不吉な塊」
「何だって?」
「それが僕らの心を一日中押さえつけています」
後輩の柏木が酒に頬を赤らめて言う。弱いくせにジョッキを口に運ぶペースがいつも早い。
「一体何の話をしているんだ」
「いや、えたいは知れています。田上ですよ!あいつが生み出す不吉な塊が二トントラックみたいに僕らを踏み潰しているんですよ!」
田上とは僕らの部署の部長のことだ。無知で傲慢、邪知暴虐の王。今日も仕事終わりの柏木の愚痴が始まった。腕時計を見るとあと三十分ほどで終電の時間。明日も早いしそろそろ帰りたいところだ。
「僕らがこうして毎日遅くまで働いても、あいつのせいで仕事は細菌みたいに増殖していく。それに油を注ぐように響く怒鳴り声!森羅万象に腹を立てなきゃ気が済まないんでしょうね。そのせいで白岩さんと、そのあと目黒さんが職場に来なくなってしまいました。
本当に許せませんよ!それにあいつは新人の飯田さんの手を握ったり―」

これは今日も長くなりそうだ。僕らはよく仕事終わりにこうして居酒屋で飲む。そうやって日々の不満と疲労をごまかすのだ。それらが重なり合って絶望に変わるのを防ぐために。心はすでに壊れているのかもしれない。でも心は自分の姿が見えないからそれに気付いていない。僕と柏木は自身の心が鏡なんかを見ないように、酒を飲んで愚痴を語って自分たちを騙す。

「まあまあ、耐えるしかないさ。さあ、そろそろ出よう」
「いつも最後はそうやって終わらせようとする。このままでいいんですか?先輩の意気地なし!真面目人間!」
珍しく柏木は話を強引に線路に戻そうとする。彼はふっふっ、とわざとらしく不敵に笑いだした。
「僕はね。ぎゃふんと言わせてやろうと思うんですよ。もう限界なんです」
「何をしでかすつもりだ?」
柏木はテーブルに半身を乗り出して僕に顔を近づける。
「あいつのデスクに爆弾を設置しました」
僕はため息をつき、会計用に財布を取り出す。
「冗談にしては大味だな」
「もちろん本物じゃありません。だから爆発なんかしません。でもね、僕はそれがあいつの目の前で爆発するのを想像すると、カーンとね、心が冴えていく気がするんですよ。理不尽で歪んだありとあらゆる負の感情が一点に収束して爆発する。不吉な塊が和らいでいく心地です」
「何かを仕掛けてきたのか?」
退勤するときに柏木が忘れ物と言ってオフィスに戻ったのを思い出した。お待たせしてすみませんと謝る柏木の表情がどことなくニヤついていたような気がする。
「それは明日のお楽しみですよ」
目が座っている。まだ水曜だというのに彼は大丈夫だろうか。紅潮した顔が金魚のように見える。
「この話を聞いたら最後、先輩も共犯ですからね」
僕はもう一度ため息を吐き出した。
「お前は読んだ本にひどく影響されやすい人間なんだろうな」


誰もいないオフィス。デスクの上には度数9パーセントの缶チューハイレモン味。それが綺麗に整頓された部長のデスクの真ん中にそびえ立っている。僕は舌打ちをした。

柏木は僕が心配して朝一番にこのオフィスに来るのを見越していたのだ。そしてそのレモン味を部長のデスクに置いたままにしておくのか、それとも部長が来る前に僕がそれを撤去し、何事もなかったかのようにいつもの残酷な一日を始めるのか。最後の選択は僕に託すということだ。柏木は否応なしに僕を共犯者に仕立て上げた。

スマホを取り出し、柏木に電話をしてみる。あと数十分もすれば彼もここに来るはずだ。馬鹿なことをするなと叱りつけるか、これどうする?なんて悪ガキのようなことを聞いてみるか。そんなことを考えていたが、彼は電話に出なかった。僕に爆弾魔の肩書を完全に投げたようだ。心臓が生き急ぐように拍動している。髪の毛先まで血が渡っている気がする。

その缶チューハイを見た田上部長はどんな反応を示すのだろうか。部長の独裁政権と、尖りきった6Bの鉛筆のような非日常がぶつかり合う。半日くらいは周りの社員の鬱屈を紛らわせてくれるかもしれない。しかしその喜劇の後、しわ寄せのように残酷な時間が流れることだろう。終わりの見えない犯人捜し。連帯責任。罪の有無にかかわらず、一人一人が火あぶりにされていくだろう。
「誰がこんな面倒なことを……」
仲間内でも、苦しむ人間の皮を被った狼の存在を疑いだすに違いない。そうなったらこの職場の雰囲気はますます悪化してしまう。

しかし僕の血液は沸騰しているかのような温度で体中をめぐっていた。興奮していた。
僕はデスクの上の爆弾に近づく。

職場という概念にあまりにも場違いなそのシルエットが、広がる田んぼの中央から飛び出す東京タワーのような不気味さを演出している。
「えたいの知れない不吉な塊」
柏木が引っ張り出したその言葉。確かに僕の胸の奥も、その塊に押しつぶされそうになっていた。僕は目を閉じて深呼吸をする。その塊を目の前の塔が吸収していく。黒々とした日々の沈殿物が、棒磁石のN極とS極が生む磁界のように集まってくる。
そしてそれが爆発する。甘ったるい液体が部長やパソコンや書類なんかに飛び散る。衝撃波で椅子が派手に音を立てて転がる。破裂音でその場にいる人間の鼓膜がしびれる。
僕の心を押さえつけるものが、いくらか緩みだすのを感じた。目を開ける。そびえ立つ9パーセントに手が震えだした。

―僕はこのまま立ち去ってしまおうか?

しかしそうやって犠牲になるのはこのオフィスの人間すべてだ。
「もうここではやっていけません」
僕は何人もの後輩からそんな相談を受けた。そのうちの何人かは実際に辞めたり、心を病んだりした。僕は話を聞くだけで、彼らに何をすることもできなかった。こんなことを実行させようとする柏木も、そろそろ危ないかもしれない。
手の震えがひどくなってくる。だめだ。ここでは我慢しないといけない。

「先輩の意気地なし!真面目人間!」
昨日の柏木の言葉が思い浮かぶ。

本当に我慢する必要があるのか?
我慢を解くその先を想像すると、カーンと体の中が空洞になるような爽快感があふれ出てきた。神経が冴え切っていく。内臓が芋虫のようにうねっている感じがする。部長のデスクの上にある電源の入っていないモニターが視界に入った。黒い画面には僕が映っている。そいつは笑っているように見えた。

僕はデスクの上にある爆弾のタブを開け、一気に飲み干した。僕はとっくに壊れていた。爆弾が体内に流れ込んでいくのを感じ、震えがいくらか落ち着いてきた。

僕は自分の席に腰かけ、飲み干した缶をデスクに置いた。そしていつものようにやってくるはずの職場の人間たちを待った。


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