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【短編小説】夏の彼らの一生 3


「私、こうやって家族以外の誰かに誕生日を祝ってもらうのって初めてなの」
クミは赤ワインの入ったグラスを口元に運ぶ。
「なんだか恥ずかしくて。それに、自分なんかのために時間を使わせているような気分になって、申し訳ないし、こうしてご馳走してくれるのも、私にはそんな価値ないんじゃないかって」
頬はうっすらと赤く果実のようで、長いまつ毛の奥の瞳は湿っているように見える。いつも透き通ったガラスのような声が、今は震えている。僕は箸を止めた。
「ありがとう」
彼女は噛みしめるように言った。
「私、あなたと出会って変わった。心と体の間にあった棘のようなものが消えていった。ありのままを感じて、ありのままを伝えることができるようになった気がするの」
僕は笑いながら頷いた。ほら、たくさん食べてよ、と僕は言う。
「大げさに聞こえるかもしれないけれど、私、生まれてよかった」

クミと付き合ってから半年以上が経った、彼女の誕生日のことだった。僕はその日を学生のできる限りの方法で祝った。彼女はとてもうれしそうで、そして色々なことを話した。彼女自身のことをいくつか打ち明けてくれた。幼い頃に母親を亡くしたこと、父の仕事の関係で転校を繰り返したこと、親友と離れ離れになってしまったこと、そして劇団員になることが夢であること。

―もうずいぶんと昔のことになってしまった。

クミと付き合ってから六年。たくさんのことを共有し、たくさんのことを忘れた。彼女の初めての誕生日のことも、細かいことはあまり思い出せない。細かい、それは忘れてもいいような些細な事という意味ではない。そこには大事なことだって含まれている。
彼女が僕に打ち明けてくれた好きな劇団、舞台、映画、女優、セリフ。僕が食後に渡したプレゼント。帰り道でした約束。それで、その日初めて彼女の家に行ったんだっけ?夢を持つことについて、彼女はあの日なんて言ったんだっけ?そして僕は何て返事をしたんだっけ?

それから五年と半年の間に、僕らは何回好きと言って、何回喧嘩をして、何回涙を流して、何回抱き合ったんだっけ?いつから何の回数が減っていって、何の回数が増えていったんだっけ?そしていつから彼女は自分の夢の話をしなくなったんだっけ?僕の夢は何だったっけ?

―――――

別れよう

あっけない響きだ。それに僕が首を縦に振れば、二人の六年は終わる。いつからか胸にわだかまっていた言葉。一人の自分を想像してみたこともあった。特に何も感じなかった。しかし実際にその風景に輪郭が生まれると、僕の体と心は急に不安定になってもろい存在になってしまった。今も目の前であがく、地上に出たばかりのセミのような気分だった。

「昨日のこと、覚えてる?」
飲み会の後のラインのことだろう。
「ごめん、あんまり……。というか、ほとんど」
正直に言う。彼女は一瞬黙って、話を続ける。
「実は私もほとんど覚えてないの。恵子のことで盛り上がって、それからかなり時間が経ったのは何となくわかるんだけど、気が付いたら自分の家で寝ていたの。久しぶりに頭痛がした。
たぶん、あなたと盛大に言い争いをしたんだと思う。たくさん泣いたはず。だって、目が覚めたら幽霊みたいに顔が腫れていたから」
「僕たちは何について喧嘩をしたんだろう」
「私たちの、今まですべてのことについてよ」
彼女はもぞもぞと動く半透明なセミを見つめている。体の三分の二ほどが殻から出ている。
「二人が重なったけど、はみ出してしまった部分のこと。お互いが心の中にしまって鍵をかけたもののこと。私たちが忘れてしまったもののこと。先延ばしにしてきたもののこと。元に戻らないもののこと」
「うん」
「二人して、思い切りぶつけ合ったのね。覚えてなくてよかったのかも」
クミは視線をそのままに、口角だけを少し吊り上げてみせた。

「私はあの頃より、不完全じゃなくなった」
「不完全?」
「別にね、今が完全っていうわけでもないんだけれど。何て言うのかな、あの頃、大学の頃のね、不安定で、何も持ってなくて、何も知らなくて、でもやろうと思えば何でもできて、そして夢を持ってて。持ってる、じゃないな。ずっと夢の中にいる、って感じかな。不自由だけど自由っていう感覚があった気がするの。
でも今は違う。毎日働いて、自分の力で生活して、生き方を自分なりに学んでいって、何かをやるには何かを諦める必要があることを知って。夢から覚めて、現実で生きている感じ。現実は夢と違って自由だけど不自由なのかなって。何なんだろうね。安定してるけど、失い続けてるっていうか。何を失くしてるのかはよくわからないんだけど」

「あなたもそうでしょ?」
僕は言葉を返すことができない。でも、きっと彼女の言うことは僕にも当てはまっていると思う。僕らは今以上に不完全だったからこそ惹かれあって、二人でたくさんの時間を共有してきたはずだ。
「昔のように戻りたいわけじゃない。もう戻れないことなんてわかってる。時間は誰にだって平等に流れる。でも、このままでいていいわけじゃない。痛みを持って決心する時がもう来ているんだと思う」
「そうかもしれない」

「私は今でも、あなたのことが好き」
僕らはそのまま、ベンチに座ったまま六年間の話をした。僕も彼女も夢を持っていた。やりたいことがいつもあって、足りないものがいつもあった。互いが忘れている部分を互いに補完しながら話した。そして一つ一つが磨いた鏡のように再び思い出になっていった。僕らは楽しかった。この六年間に後悔はなかった。

彼女は立ち上がって、そして去っていった。僕はその後ろ姿が見えなくなるまで彼女の方向に顔を向けていた。心は白い波のように静かだった。
セミはもう少しで体がすべて出るというところで、いつの間にか動かなくなっていた。透明だったはずの体が黒くにごり、夜の暗闇に溶けてしまいそうだった。

―――――

ある日、仕事から帰ると、僕の部屋の合鍵がポストの中に入っていた。きっとクミが僕の部屋の荷物を取りに来て、最後に鍵を置いていったのだろう。
部屋にあった彼女の服や化粧品なんかが無くなっていた。まるで初めからクミなんていなかったような気分がした。置き手紙なんてもちろんなかった。
僕はその時、彼女と別れてから初めて泣いた。

次の日の朝、いつの間にかセミの鳴き声がしなくなっていることに気付いた。
夏の終わりがもう近くまで来ている。
僕はベッドから出て、朝の支度にとりかかった。日差しが静かに僕の体を透かして通り抜けた。



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