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【短編小説】夏の彼らの一生 4


またこの季節がやってきた。しゅわしゅわと沸騰したラムネが耳に注がれるような音。自分の存在をこれでもかと叫ぶ声。やかましくて腹が立つ反面、ほとばしる自信のような圧力をうらやましくも思う。セミにそんなことを感じるなんてバカバカしい。
部屋を漂う穏やかさに眠気を任せ、僕は再び目を閉じる。彼らの合唱がひっきりなしに聞こえる。やはりどうしても音の波に睡魔は蹴散らされ、意識は鉛筆の芯のように鋭くはっきりしてくる。眠るのを諦め、横になったまま深呼吸をする。一匹ずつほんの少し異なるセミの鳴き声。彼らはそれぞれ、やるべきことをひたすらにやって、そして秋も冬も春も知らずに死んでいく。

僕は仕事を辞めた。朝起きて、満員電車に乗り、僕の生き死にに毛ほども興味のない人間たちに作り笑顔と謝罪を重ね、カップ麺を食べて空腹を満たし、今日と同じ明日のために眠りにつく。そんな繰り返しの生活で、僕の中には喪失感だけが広がっていった。それは海のように青黒く、僕自身を浸食した。やがて僕はその渦に飲み込まれた。心がうまく動かなくなり、次第に体もそうなっていった。僕は住んでいたアパートを引き払い、遠い実家に帰った。

時間の外側で生きているような日々だった。セミをはじめとした虫たちの声、鳥の声、カエルの声。人間の声だけが聞こえない。近くには川が流れ、田んぼが広がり、森林が家を覆うように生い茂り、視界の向こうは四方横たわる山。大地から針のように飛び出る無機質なビル群はこの街にはない。日陰を選びながら、僕はこの街を散歩した。野良猫のように、世界と自分を切り離して生きていた。
鼓膜にへばりつくセミの声も毎日新鮮だった。昨日のことは何も覚えていない。何も覚えることがないからだ。新たに何かを知る出来事はないし、誰かを困らせないように「タスク」管理なんてする必要もない。
だから毎日、ほっつき歩いているだけで微熱のような幸福を感じることができた。些細な事で感情に色がついて心が揺さぶられる。でも、それがどこかにつながることは決してない。僕はその日のことを忘れてしまうから。すごろくの悪いマスを踏んでしまったように、いつも僕は一瞬で引き戻されてしまう。終えることのできない現実の前に。
夜、暗闇の中、僕に擬態した不安は嬉しそうに問いかける。
「お前は一生、そのままふらふらと生きていくつもりか?」
別にかまわない、とは言えない。僕は働きもせず、親のすねをかじって生きている状態だ。世界と自分なんて切り離せるはずがない。僕はいじけた子どものように現実を見ないようにしているだけだ。
―だから一日学校を休んだ。次の日もなんとなく嫌で休んだ。そして次の日も。教室のみんながまるで別人のようになっている気がして、いつしか恐怖で家から出られなくなった。僕は世間に対して、そんな状態に陥っているのかもしれない。

僕は今日も無為に街をうろつく。日に日に大きくなる焦燥と絶望を尻目に明日を迎える。

羽化に失敗したあの日のセミが、たまに夢に出てくる。

―――――

僕はある日、街に一つしかない映画館で映画を観た。
別に観たい映画があったわけではない。親の用事の手伝いで僕が足として車を運転することになり、用が済むまで時間をつぶしてこいと言われたから、近くにあった映画館に寄ってみたというだけだった。ちょうど上映開始時間の映画があったため、チケットを買ってそれを観ることにした。聞いたこともない日本の映画だった。出演者もほとんどわからない。主演の俳優だけ、頭の隅で引っかかる程度だった。最近は、テレビはおろかネットすらろくに見ない生活だから、知らないのも当たり前なのだろうが、劇場内にほとんど客がいないのを見るとやはり知名度はあまりない作品なのかもしれない。

大学を卒業したばかりの社会人の恋愛模様。主人公を翻弄する何人かの女性。古着屋。ライブハウス。煙草。浮気。喧嘩。
-僕はいつの間にか眠気と戦っていた。

しかし僕はそのシーンで後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
クミがそこにいたのだ。数秒間だけ彼女が大きなスクリーンに映し出された。主人公の回想場面だった。クミは泣いていた。喫茶店のように見える。そして彼女は呟いた。
「さようなら」

クミの登場シーンはその数秒だった。それから映画の終わりまで、彼女が登場することはなかった。スタッフロールに彼女の名前は出てこない。クミは違う名前で活動しているのかもしれない。二時間ほどの映画だった。僕のほかに鑑賞していた客たちが無言で退出していく。僕もあとを追うように席を立つ。劇場の出入口で、映画館のスタッフが無表情で僕に礼をした。
気が動転して僕はその映画がどんな物語だったのかをほとんど理解できなかった。クミが再び現れるのを待ち構えることに必死だった。少しやせたようにも見えたが、あの回想シーンの女性は間違いなくクミだ。そしてたった一言の声がその確信をさらに後押しした。僕は瞬時にクミと別れ話をした日に戻された。僕がずっと目を背けてきた記憶だった。よりによって、どうして彼女は映画の中でも別れの言葉なんかをささやくのだろう。

彼女と別れてからもう三年が過ぎていた。ずいぶんと遠く、風化した過去に思える。彼女はきっと、あの日を境に新しい世界へ歩き出したのだろう。彼女の夢。学生の頃に彼女が打ち明けてくれた夢。それを彼女は完全には失っていなかった。それをきっと諦めきることができなかった。だから、彼女は決心してその道に向かった。

「おめでとう、クミ。本当にすごいことだよ」
僕は心の中で、遠くにいる彼女へ呟いた。
―そして僕は、君と別れてから何をしていると思う?

スマホでクミと彼女が出演した映画について調べてみた。出演者の名前を片っ端から検索する。しかし彼女らしい人物は見つからない。クミはまだまだ駆け出しなのかもしれない。しかし、クミならきっとすぐに色んな映画や舞台で活躍するようになるに違いない。有名人、なんて存在になってもおかしくない。そして、今よりもっと僕の手が届かない存在になるんだ。

―――――

家に帰ってからも色々と調べてみたが、クミに関する情報はまったく出てこない。僕はほんの少しでも情報が欲しく、佐藤に聞いてみることにした。佐藤と連絡を取るのもずいぶん久しぶりだ。彼は元気でやっているだろうか。ラインを送るとすぐに返事が来た。長い間連絡を取っていなかったにも関わらず、相変わらず返信が早い。
「すまん、今電話できるか?」
久しぶり、というような予想していた返事はなく、唐突だった。どうしたのだろう。
「うん。いいよ」
咳払いをして、最近じゃほとんど使わなくなっていた喉の調子を確かめていると、スマホが震えた。

「お前はもう聞いてたと思ったが」
「何の話?」
佐藤の声がずいぶんと重たく、背筋が冷たくなるようだった。

「        」
からっぽの体の中に佐藤の言葉が放り込まれ、いつまでも反響しているようだった。何度も僕の名前を呼ぶ佐藤の声がうっすらと聞こえた。

「クミが、死んだ?」



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