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【日記体小説】麻痺

何も思いつかない。
文章の始まりっていうのはいつもどうやって書いたらいいかわからないんだ。
ましてや君にあてて書くものだから。
僕は元気でやってる、と思う。
もう九月になった。夏ももう終わりだね。君はどんな夏を過ごした?
お盆は帰省できたかな。僕はできなかったよ。
それで、今君に手紙を書いているのは―
それで、それで…

僕は何も書けない。頭の中に霧のようなものがかかって、僕はそこから言葉を見つけることができない。

ひどい風邪をひいた。熱が上がった。僕は数日間ベッドの上から動けなかった。部屋には誰もいない。仮に僕がここで死んでも、発見されるのはとっくに体が腐敗を始めている頃だろう。僕の最期の第一印象は異臭、だ。覚えてくれる人がそれでほんの少しでも増えるなら、悪くないと思う。でも死後の世界があるとして、その腐った体のまま天上の地上を徘徊するのは気が引ける。そんなことをぼんやり考えながら、僕は何度も寝返りを打った。太陽が何度か沈んでも、僕はなかなかくたばらなかった。

熱は消えた。まるでそれが幻だったように、指を鳴らす音で散った。目を覚ましたら、僕の体は流砂のようになめらかだった。そこで初めて僕は後悔した。体のほてりは泥棒のようなやつだった。僕はもっと用心して、その病を見張っておく必要があったのだ。僕は自分の中にぽっかりと穴が開いているのに気付いた。病魔はその穴から僕の何かを持ち去って消えた。その頃からだと思う。頭の中にもやがかかるようになったのは。

君とは高校の時に出会った。クラスが同じだった。君は美術部で、僕は帰宅部。何でそうなったかは思い出せないけど、僕はある日の放課後、美術室に忍び込んだ。その後君が入ってきた。君はガラスのような目をしていた。僕はきっと眼球の奥を怪我したんだ。それから君のことばかり考えるようになった。

生活は悪くなかった。少なくとも僕はそう思っていた。妻となった君は、たぶん僕と同じ感想を持ってはいなかった。それがいつからなのかはわからない。もしかしたら初めから僕たちは別々の方向を見ていたのかもしれない。君をこの目でとらえてから、十年以上経った。僕の傷はまだ治らない。そして君は突然に姿を消し、この傷は一生完治しないものになってしまった。

僕は何も書けなくなった。さび付いたように体がうまく動かせない。映画を見ても、本を読んでも、何も感じない。友人に会っても、話をしているのは僕の体を借りた別の人格のような気がしてしまう。思ってもいないことを長々と話し、酒を飲んで笑っている。家に帰り一人になると、僕は何も覚えていない。頭痛だけがしつこく噛みついている。

世界中が病に覆われたとしても、僕は何も感じないだろう。非日常は一瞬で日常に染まる。それがいつ消え去ろうが、僕はその世界の外側で、機械よりも機械らしく生きている。僕はじっと、さらにその外側の世界に転がり込むのを待っている。君はどこにいるんだろう?

何も書けない。
 何も書けない。
  言葉が出てこない。
   世界が目の前に広がっていても、僕は何も感じない。
    物語が出てこない。
     君がどこにもいない。

僕は夜、外に出て車道を眺めている。左右から左右、車が流れていく。人間を乗せた鉄の塊が風のように去っていく。僕は立ったまま、じっとそれを見ている。僕はタイヤを視線で追いかける。それは暗闇を駆ける獣のように見えた。一心不乱に突き進む四匹の獣だった。自身では目的を持たない、単純で純真で明確な動作だった。僕はそれに久しく姿を見せていなかった感動を覚えた。

それで、何を書けばいいのだろう。
君に、僕は何を伝えればよいのだろう。
相変わらず、僕は無感動で無気力で無抵抗だった。
後遺症がどこまでも僕を蝕んでいる。それが一体、何の病がもたらしたものなのかはもう誰にもわからない。不明の後遺症だった。
僕は麻痺している。ゆっくりと何も感じなくなっていく。ありとあらゆる複雑さに、体はバラバラになる。何も見えなくなる。色とりどりの線が眼球の前を踊っている。麻痺が広がっていった。

この文章に何の意味があるのだろう。
 何も書けない。
  僕は流砂の中で助けを求めている。
   その声も太陽の光で焦げて黒ずんでしまう。
    君はどこに行ったんだろう。

僕はただ、夜、車道を駆けていく四つの黒い獣を眺めていた。

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