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制限の中での可能性と希望。


毎日書こうと思っていたけれどやはりメンタルの浮き沈みが激しくて書けない日が2日ほど続いた。日々周りの状況が変わっていく。感情に流されないようにするのに必死だ。

私が活動している舞台、が、どんどん中止になったり延期になったりしている。実際私自身の身にも降りかかっている。もう、それは、しょうがないとはいえ、しょうがないことをしょうがない、と思えない。辛い。そして、舞台だけじゃなくて、生活することも危うい自体になっている。わたしだけじゃないだろう。でもわたしの悲しみはわたしだけのものなので、やはり、みんな大変だから、というのと、別問題だ。悲しいときは悲しい。あなたも悲しい。わたしも悲しい。あなたの悲しみはわかってあげられないし、わたしの悲しみも誰にもわかってもらえない。それでもただ側にいること。それでいいと思う。

上演する側として舞台がなくなるのも辛いが、観にいくことを日常にしている人も辛いのではと思う。実際私が観に行こうとしていた梅田芸術劇場の「天保十二年のシェイクスピア」は上演中止になり、私も悲しかったが一緒に観に行く予定だった母の悲しみは計り知れなかった。

そういえば昔宝塚を観に行くことを目標に、希望に、毎日過ごし、観劇後は消沈していた小学生生活を私自身が送っていた。

舞台は希望で、日常だ。

実際私自身が、希望をお客様に渡せているのか、日常の潤いを提供できているかわからないけれど、毎回その時のベストを目指しているし、これでも舞台人の端くれなので、何か出来ないかなぁと思う。自分自身と、そして届ける相手へ。

舞台はライブなので、正直画面越しだと意味がないことだらけだと私は思っているが、それでも出来ることもあるだろうし、あと、私は最近書くことを目指し出したので、昔のラジオドラマ台本をノートに貼っていったり、書いて発表するのはいいかなと思う。読んでもらい、人を通したらどうなるか想像してもらったり。今後の楽しみの一つとして。



こんな時。自分には何もないと思う。何もできない。自分自身の価値がイマイチ自分でつけられない。自分目線でしか考えられなくなっていく。私は、弱い。私一人では何もできない。

みんながライブ配信をしたり、昔の映像を流したり、アーティストは楽器を演奏したり、ダンスをしたり、歌ったり。私はどれも秀でていない。ダンスも歌もなんとなくするけど、秀でているかといえばそうでもないし、私じゃないとダメなことではない。(ただ、ダンスは単純に好きだから、需要云々ではなくて、やりたいかなと思ってきた。4月9日追加)

私は笑って接客すること、時間を少し頂いて涙を流すこと(哀しみの感情を絶対的にマックスにすること)しか人に対して提供できない。


でもできないできないじゃしょうがない。ピンチはチャンスだ。この物理的にも精神的にもできない制限された中で私がやりたいこと、やろうと思っていること、やれること。渡せられるもの。物語を生み出す人々がたくさん世の中にはいるが、私の言葉は私しか出てこないし、もちろん、すでに沢山のエンタメが流通しているので私だけのオリジナル、にはならないけれどそれを組み合わせたパズルは私にしかできない。面白いものを作るための、今はその修行期間としてぴったりだと、考えたい。私の周りには尊敬すべき作演出の方々が大勢いる。その人たちの背中を見て、私は今どんな言葉を紡ぐのか。私の価値は、見た目や瞬間的な、変わっていくものだけではなく、言葉でもつけていけるようになりたい。これが今のこの瞬間の、このノートという場の、私の希望と可能性だ。

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