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名前という愛。

昔から、「名前」を大事にしている。

名前は、愛で、呪いで、その人だ。



もう今更なのだが

「池山ユラリ」は生まれた時につけられた名前ではない。舞台の活動名で、もはや今は生活するための名前。元々名前を変えるつもりはなかったけれど、ヨガのインストラクター(実はそうなんです。最近は身体が辛いのでお休み中)になることをキッカケに変えた。自分で自分を名付けた。名は体を表す。私は自分の名前を気に入っているし、そうありたいと思っている。

池山は祖母の旧姓。許可をもらったわけではないけれど池山使うね、っと言ったら母も祖母も喜んでくれた。

ユラリである。我らながらユラリという響きによく辿り着いたなと思う。ユラリ、ゆらり。

京都水族館に行ったとき、クラゲに感動した。照明の具合もあったと思うけれど、暗いところで白く透明に漂い優しく柔らかく流れに身を任せる姿をずっと眺めていたかった。家に帰ってからもそのことを考え、結果ユラリという言葉が出てきた。これだと思った。

4月1日に変えるとエイプリルフールみたいだなと思い、3月31日に変更するとSNSで発表した。次の日、4月1日では「私も名前を変えます」という嘘を見かけ、自意識過剰かもしれないけれど馬鹿にされてるような気がした。私は池山ユラリとして生きることに決めた。

池山さん。ユラリちゃん。ゆらちゃん。ゆら。そうやって呼んでくれる人がいて、私がここにいることを実感できる。ただ何故か、ユラリと呼び捨てにされると所有されてる気がする時がある。呼ばれても大丈夫な人もいる。なんでだろう。

本名になるとその感覚が、より強い。呼ぶなというわけではないけれど、私の本名を呼んでいい人は、家族と、数人。限られている。それ以外の人に呼ばれると、なんだかぞわぞわする。自分の大事なところに勝手に触れられているような、勝手に足を踏み入れられているような気がする。嫌悪感。もちろん呼んでる側は絶対そんなことまで考えていないだろうけれど、どうしても嫌な気持ちになってしまう。

池山ユラリは自分で決めたけれど、大抵は自分の名前を自分で決められない。なかった感情や、物が、名前をつけることによって認識できる。だから、名前はまず最初に他人からもらう愛であり、自分自身なんだろうと思う。その感覚がわたしには大きい。池山ユラリも本名も自分に向けられた愛であり、自分自身だ。

名前に対しての意識が強いので、私が作演出を今後していく「林檎の君へ。」に出てくる登場人物には、名前を明示しないことに決めた。他ではなく「わたし」の、「あなた」の、話でありたい。名前をつけたら他人の話になる気がした。

そういえば、昔の人も、自分の名前を易々と人に提示しなかったって言うじゃないですか。紫式部も清少納言も本名ではないし、〇〇の娘、とか言われたり。ある意味、大事にされているのか、卑下されてるのかわからないけれど。

愛している人の名前は何度も呼びたい。何度も口に出して唱えたい。愛している人に名前を呼んでほしい。

だから名前を大事にしたい。



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