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「メンヘラ」「病んでる」という言葉について定義してみようとした結果のメモ書き。


過去台本と、上演するはずだった台本をペタペタとはり、特に何か文章を書くという行為をせずして過ごしていたら5月も半ばに差し掛かってしまった。寝るか、ご飯を食べるか、ぼーっとTwitterを眺めたり、本を眺めたり。自粛期間中なので、生きているだけでも十分ではあるが、いまいちメリハリがないので、今日は、曖昧に使われている言葉について考えようと思った。

「メンヘラ」という言葉である。SNSで歳下の女優さんが「なんでもかんでもメンヘラと言うな」と呟いていた。共感したし、何でもかんでも病んでると言うなと私も思う。ただいきなりこの言葉について定義するのかという気持ちもなきにしもあらずだが、自虐的に使うことが多いし、日常的にネガティブな方向や蔑む方向でメジャーに使われているが改めて他の言葉で表すとなると、自分の中で曖昧だ。それ故言われたり、話している時にメンヘラという言葉が出ると違和感が私にもある。だから、それについて考えてみる。

まず、Web上だがひとまずメンヘラという言葉を調べてみると以下のように出てきた。(weblio辞書)

長くたくさん書いてあるが、私の読解だと、大きな括りでいうと「心に何か問題がある人≒病んでいる人」、細かく分類すると「精神的に不安定」という点と、「何かに依存している≒境界性パーソナリティー障害に類似するもの」という2点が読み取れた。

で、ここまで読み取ってみたのだが、急激に体調が優れなくなってきたので一旦やめた。いつも精神が身体を司っているのか、身体が精神を司っているのかわからなくなる。今もメンヘラという曖昧な言葉を定義つけたろうやないかい!って意気込んだところ急に調子が悪くなる感じ、ぶっちゃけると生理の前なのでそれの所為なのか、そもそもみんな言葉を曖昧に捉えているのに「相手や自分を傷つける可能性があるネガティブな方向で使っているということ」に対してのまた私のネガティブさ、が催したのかわからない。言葉は武器みたいなものだと思っていて、扱い方を間違えると人を刺す。だからその武器の大きさとか形がわかってない状態の言葉は危険極まりない。が、そんな武器が世の中には多い、と、私は思う。私が言葉を知らないだけなのかもしれない。だから私自身がそのよくわからない武器を振り回している可能性がある。と、またネガティブな方向に。エンドレス!これが私の中のメンヘラではないか?

ちなみに私の自分に対する「メンヘラ」は「ネガティブな方向に思慮深い」という意味で使っていた。未来に希望を見出せなかったり。悪い方向に転ぶのではということを考えたり。成功したり褒められた経験の記憶が乏しいからだと思う。自分が思った世界と、答えとして出た現実が違うことがしばしばありそのギャップに苦しむことが多かったので、(例えばよくある話だが100点取って褒められる!と思っていたら当たり前だよね、と言われたり。100点だと思って提出したら60点だったり。)とにかく自分の想像世界を蔑むことで心の安寧を保っている。そんな奴は大抵石橋を叩いて叩いて叩きまくって自分で壊す。そういう意味で精神的不安定だ。

ただ単純に胃の調子が悪かったり、生理の前後で女性ホルモンのバランスが悪かったり、お月さまが丸かったり、雨がたくさんふったり、昨日暑かったのに急に寒くなったり。ただそれだけでもこのネガティブな方向の幅がぐんと広がって落ちていくことだってある。精神のバランスと身体のバランスがなかなか一致しないのだ。精神が元気でも身体が悪いと引っ張られるし、精神が調子良くないと身体が悪くなってくる。バランスが悪い人もメンヘラ、だと思っていたが、多分バランスが悪くなった結果の行動に出るか出ないかがメンヘラなんだとこの記事だけを読むと思う。

じゃあ病んでるということは?類似して闇が深い、とかも言うけどそれは?と思ったところ、それは多分行動の前の時点、つまりトラウマだったり、心の引っ掛かりのことかなと思った。先程の私の褒められない過去…幼少期や、もちろん今現在1秒前の忘却出来なかった悲しい出来事苦しい出来事。自分の思考を作る、価値観を作るきっかけのもの。過去。言えないこと。隠したいこと。本人が恥じていること。罪悪感。でもその過去は避けようがなかった事実だから、それを蔑む必要はないと思う。

生まれた場所は選べない。「虐めは虐められる側にも責任がある」という言葉が私は許せない。だったらネグレクトの親の元に生まれたことに責任があることになってしまうし、DVの親の元に生まれたこと自体に責任が生まれる。親は選べない。容姿も選べない。地の頭の良さも。色んな立場の子供がいて、まだ善も悪も自分も他人も判断できない状態で強いものが弱いものを屈するのは自然の摂理だ。子供は選べない。そんな子供たちを大人は助けてあげるべきだと私は思うけれど、大人だって完璧じゃない。今まで起こってきたこと、選んできたことはしょうがないことだ。悲しいかな環境や運もあるでしょう。だから、それを蔑むことはなくて、それを忘却したり解決しようしたり、はたまたそのままにするか、また気がつかないか、は本人の自由で。自虐的に大きな括りとして病んでるとか闇が深いとか言って救われる場合もあるし、そう括ることによって過去を客観視できることもあるけれど、勝手に軽く扱ってよいものではないかなと思う。そもそも人が病んでいることに対してこっちには被害がない。病んでいることをwwと蔑むのは精神的マウントでしかない。

そう考えているのは今日14日。1日経ってまた記事を書き足している。昨日13日の時点では「〜という2点読み取れる。」まで書いて下書きにした。なんの話をしているのかわからなくなってきたけど、私は蔑まず自分の闇やトラウマに対して戦っている人、静かに対峙できる人が、好きなのかもしれないなと思った。


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