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きみは宇宙人

 ——保育園の靴棚は宇宙につながる港なの、知ってる?

 あまりの退屈さに、永野は喧騒の中、思わず入口の方に視線をやった。先ほどから、中ジョッキは一向に進んでいなかった。気泡はすでに消え失せていた。ぬるまったくなった黄色の液体を申し訳程度になんとか飲み下しているだけだった。さっさと帰りたかった。いつもは飲み会は断っている。だが、チームの一人の出産祝いで、正確には子供を産んだのはその配偶者なのだが、主任として担ぎ出され、帰り道とは逆を行くしかなかった。視界の隅に、下駄箱が引っかかった。
 その時ふと、木村の言葉が頭に蘇ったのだ。
 宇宙につながる港……呑み屋のはつながってないのだろうか、ないだろうな……。
 そう言った時、木村はくすくす笑っていた。どういうことか訊くと、奥が深い、自分の固定観念を突破したものに毎回出会えるんだよ、と言葉を続けた。
「だから、なんで?」
 まず、靴棚の名札を眺めるんだ。
「今いろんな苗字と名づけがある。例えば、名前でいくと、たかしくんには、名前がもう一つある。レオンくんっていうね。お父さんがフランスの人だから。それれ、漢字の読み方が一筋縄ではいかないのも多い。トリッキーでね。毎回勉強してる」
 確かに毎年新入で入ってくるやつらの名前が、小難しくなっているのは確かだが、それを前向きにとらえるのはさすがだった。
 それから、そのたかしくんが今や保育園では「たかちゃん」と呼ばれている顛末を説明した。「たかちゃん」は髪の毛や、肌、瞳の色素が薄くて、見た目としてはお父さんに似ている、だから元々みんな「レオ」と呼んでいた。勝手な言い分だが、そっちの方がしっくりくるということなのだろう。だが、今年の四月からの新しいお友達にも「レオ」くんがいた。同じクラスに二人の「レオ」くん、そこで名前が二つある方の「レオ」くんを、もうひとつの「たかし」から「たか」ちゃんと呼び始めたのだ。木村たちは反発を予想した、だが予想に反して「たかちゃん」はけろりと「はーい」と返事をしただけだったという。
「嫌な顔せずに?」
「うん、だってお母さんにはそう呼ばれているんだって」
 木村は何か未知なるものに出会ったいつもと同じく、きらきらした眼差しを投げてきた。「どっちも僕の名前だよって。子供ってすごいんだよ」
 それから、いつも通り、よくわからない懐メロを鼻歌でやり出した。七〇年代の、女性二人組がミニスカートでダンスしながら歌っていたあれだ。未確認飛行物体についての歌、身振りと効果音も自分でいれている。永野だって、当たり前だがリアルタイムでは知らない。昔見た「懐かしの」系のテレビ番組や何やらで知っているだけだ。目の前の男が、実は年齢を誤魔化しているんじゃないかと思うことは常々あるがもう慣れっこだった。
 そのきらきらした眼差しは、大学時代に出会った時から変わらなかった。教育学部の五限の授業で、大教室の後方に陣取って、気の迷いでとってしまった教職課程、ほとんど毒くらわば皿までの精神で、あくびを噛み殺しながら眠気に耐えている永野の隣で、木村は一心不乱に本を読んでいたものだった。何をそんなに夢中になっているのかと眺めるが、授業中だから声はかけない。木村の長い前髪がパーテーションになっていて、何の本かがわからない。髪の毛の隙間を見通すように目を細めると、次第に髪の毛が枝分かれしているのが見えてきて、頻繁に染めすぎなんだよ……とぼんやり考えていると、視線を感じてか、すい、と木村の視線が流れてくる。その時の目もそんなふうに輝いていた。
 あの時読んでいたのはなんだったか……。タイトルは教えてもらったはずだった。
 それからとっくに十年ちょっとがあっという間に過ぎて、二人とも三十代の半ばに差し掛かっている。
 永野は木村の大学時代の髪の毛の色の変遷を思い起こしながら、下駄箱をぼんやり眺めていた。木村とは違う意味だが、あそこは確かに港だ。自由の宇宙へ向かうための。
 その時、誰かが立ち上がる気配がした。棚橋、どこ行くんだ、お前の祝いの席だぞ、と誰かが言った。本日の宴席の口実にされた本人が「ちょっと……」と言いながらスマートフォンをしっかと掴んで席を立った。
「俺もタバコ……」
「永野さん、禁煙やめるんすか」と誰かが言った。ズボンのポケットを上から探ってタバコを確認するそぶりを見せながら「内緒にしといてくれ」と永野は短く言った。

 案の定、棚橋はトイレには入らずにトイレの前の死角でひたすらスマートフォンと睨めっこしていた。
「さっさと帰れよ」
 永野は声をかけた。棚橋がさっと顔を上げる。「主任……や、でもまだ終わってないし」
 「まだ帰れない、多分もうすぐ終わる」というメッセージを打っているというところだろう。いや甘い、すぐには終わらないだろう。
「あいつらはただ飲みたいだけだ」
 棚橋は、飲み会の誘いをかけられた時も目を泳がせていたし、乾杯の時も唇の端がこわばっていた。その後もしきりにスマートフォンを気にしていた。彼は、今のチームではだいぶ若い方に属していて、新入りに近い。サラリーマン社会への入会の試練だとでも考えているのだろう。
「里帰り出産じゃないんだろう」
 棚橋の手元が光りを放ち、視線が落ちる。一瞬頬と唇が緩んで、永野は部下の柔らかな顔を垣間見た。棚橋ははっと上司に視線を戻す、もちろん表情をあらためて、「ええ」。
「まだ生まれて一ヶ月たってないだろう、嫁さ……じゃない、お連れ合いは体まだだいぶきついんじゃないか。安静にしてた方がいい時期だろ」
「おつれあい……」
 棚橋がぼんやりした。脳内で意味を検索したようだ。
「一週間は実家からお義母さんが来てくれたんですが、今は一人なんで、夏菜子が頑張ってくれてます」
「かなこさんがきついから早く帰れ、こんなの付き合う必要もなかったのに」
「でも……」
「でももクソもない。酒はいつでも飲めるが、お前の家には今助けが必要な二人がいるんだろう。早く帰れば、その分、かなこさんは休める。それに子供の顔も見られる」
 棚橋の顔が先ほどの柔らかさを取り戻す。
「そうです。子供の顔、毎日、毎時間変わるんです。可愛くて、小さくて……」
「荷物は俺が持ってきてやる。下手に行くと捕まるからな。お前は靴履いて待ってろ」
「主任、タバコじゃ?」
「タバコとはもう縁を切った」
 木村はある日何気なくこう言った。タバコの味のするキス、昔は悪くないと思ったけど、もう、好きじゃないな。その言葉がタバコを吸おうとするたびに耳の奥で蘇ってやめた。
「でも俺が帰ると……」
「今日はいつもつきあいの悪い主任が二次会まで付き合ってやるんだ、あいつらに文句はないだろ。嫌なやつは帰ればいい」
 今度は自分がスマートフォンで一言入れておく番だった。今日は元々木村が見たいSFドラマの続きを見る予定だった。
「主任て、理解があるんですね」
 「理解がある」? 別にない。ただ聞き齧ったことがあるだけだった。産休や育児休業中の女性たちがどれだけ大変か。「たかちゃん」のお母さんは、二人目産んでからさ、産休じゃん。「たかちゃん」は保育園に来るわけ、でもお母さんが産「休」だからね、うちの園は短時間しか入れなくなる。育児休業も同じ。九時から四時までね。仕事してたら、八時から夜七時までいける。そうすると九時ぐらいにさ、赤ちゃん抱っこ紐で入れながら歩いてくるの。髪の毛ぐちゃぐちゃであんま寝てませんって顔で。それで四時にさ、またお迎えにくるの。抱っこ紐で赤ちゃん前に入れて、四歳の子の手を引いて帰ってく。それからスーパーとか寄って買い物して、ご飯作って食べさせて、赤ちゃんにおっぱいあげて四歳の子と一緒に遊んで寝かせるの。夫が帰ってくるまで保育だよ。ワンオペってやつ。仕事は休みってことになってても、お母さんはね、少しも休んでなんかないんだよ。
 永野はただ首を振った。「知り合いに聞いただけだ」
 棚橋は、へえ、と意外そうな顔をした。それから初めて気づいたように、永野の左手の薬指にはまっている細いリングに視線を落とした。

 Googleマップを開いて、永野は目をすがめた。誰かが水族館仕様とかいう部屋を選んだので、あたりは薄青いライトに照らされていた。時に水面の光を模したのかちらちらした明かりが入って、小さいスクリーンを見るに不都合この上ない。
 ああ、ここか。
 近くの、先ほどここに来るまでに見かけたはずの店の名前を見つける。タップして外装を確認する。間違いない。
 こんなところにあったのか。
「主任、何探してるんですか?」
 さっきから部下の一人が延々とマイクを握っていて、全部で七人ほどのメンツはめいめいお喋りに興じていた。BGMは時に調子の外れる一〇年ほど前のヒット曲に、酔っ払って少々音量コントロールを失った話し声、随分こういうものから距離をとっていた。久しぶりに身を浸してみても心は踊らなかった。
 永野の隣に座っている遠野が聞いてきた。
「いや、さっき、眼鏡屋があっただろう、あそこに。それを探してて」
「メガネ? 主任はかけましたっけ?」
「俺はコンタクトなんだが……」
 店のサイトを見つけて、タップする。オンラインショップがあるらしい。
 カラフルで癖のある形のデザインが多そうだ。確かに木村が好きそうだし、かつよく似合いそうだった。
「あ、かわいいですね……おしゃれ……。主任ってこういうの、好きなんですか? ちょっと意外です」
「ああ、俺?」
 画面から顔を上げる。スマートフォンを覗き込んでいた遠野と目があった。近い。永野は気持ち尻を逆方向に動かした。「いや……」
 これいいよね、と言ったのはあいつだった。オンラインショップの画面を見せて訊いてきた。「視力が落ちたのか?」と訊ねると、木村は頬を膨らませた。裸眼のはずだ。「ううん、でも俺、目がいいから老眼くるのはやいと思う。今から可愛い老眼鏡を探してる」木村の意味不明は今に始まったわけではないが、なぜ三十代半ばで老眼鏡を探さねばならないのか。
「俺じゃない……」
 遠野が上目遣いでこちらを見てくるので、永野は斜め前を向いて視線同士がかち合わないようにした。
「主任飲んでますかあ!」
 部下の一人の佐藤がいきなり肩を抱いてきた。「飲んでるよ」
 遠野がちらりと、そこはかとなくしらけた視線を送る。遠野は佐藤に興味はなく。佐藤は遠野に興味がある。永野は心の中だけでため息をついた。
 さっきから、佐藤はずっとこちらの間合いをうかがっていた。遠野は今いる七人のうち二人しかいない女性の一人で、しかも独身、一番若く、そして佐藤は、いつも構ってくれる誰かを必要とする人間だった。
「もうすぐなくなるじゃないですか、すぐに呼びますね。次ハイボールいきましょう」
 有無を言わさずに気の利く部下が、三人分の飲み物を手元のタブレットで注文した。今日は飲みすぎなければいけないらしい。明日は週末だ、なんとかなるだろう。
「で、何を見てるんです?」
「メガネだよ」
「へえ。メガネをすすめてるのは誰なんですか?」
 こちらの会話の内容までチェックしているのだ。面倒臭い。「その指輪の?」
 佐藤は永野の左手の指輪に目配せした。
 だから飲み会は嫌いなんだ。永野は無視した。残ったドリンクを何口かあおり、それから曖昧に笑った。
「お前は歌わないのか」
「主任の指輪、七不思議の一つですよ」
 七不思議とはまた古めかしい言い方だ。永野はすぐさまその場を去りたい衝動に駆られながら、グラスをあけた。
「入社以来、結婚してないはずなのに長年指輪してるって有名です」
 酔いは人にどれだけ恥知らずな発言をも許す。そしてこれはそう失礼でもないことになるだろう。ちょっと知りたいんですよ、何が悪いんですか。指輪が熱を持ち始めた感じがする。
 隣の遠野が息を詰めた。諌めたいのだろうが、どうすべきか考えているのだろう。
「女避けっすか」
 永野は言葉を探す。いつもここから先は未開の宇宙だ。何をいうべきかわからない。青いライトは水中というよりは、宇宙空間に放り出されてしまったような感じがした。命綱はない。永野は唇を歪める。
 その時ちょうどドリンクがやってきた。
 「佐藤、とりあえず飲めよ、話はそれからだ」
 最近の若いやつは基本的に俺より遥かに酒に弱い。酔いは記憶も思考も四散させる。これはアルハラで、最低の方法だとうっすら思いながら、グラスを部下に押し付けた。

 佐藤は同僚にもたれかかって、なんとか駅の方角に向かって歩いていった。
 永野は適当に挨拶をして逆方向に踵を返した。
 寄っておきたいところがあった。終電は逃すだろうが、家は徒歩で歩けない距離ではなかったし、久しぶりの酔いで体温が高い感じがした。夜気の冷たさが心地よかった。
 方向感覚が少々鈍くなっている自覚はあった。スマートフォンを眺めて、目的の場所まで徒歩二分、当たり前だが店は閉まっていたが、ショーウィンドウの中に、まさに、木村が見せてきた眼鏡が陳列されていた。小さな電子機器の灯りに頼った限りでは、今の時期にぴったりの落ち着いた秋色の太い縁のモデルだ。琥珀色や、こくのある赤色、そして深い青に、黒もあった。どれも同系色のボーダーが入っているように見えた。まるで……天体のようだ。よく見ると暗がりに小さな金文字で「惑星シリーズ」と書いてあるプレートがあった。
「お揃いとかどう?」
 この青とか茶色っぽいのなら、永野に似合いそうだし、会社にもしていけそう。レンズは色々かえてくれるみたいだよ?
 長めの髪の毛を耳にかけて一心不乱にスマートフォンを見ていたのが、ぱっと顔を上げた。永野は一瞬どきりとする。木村の、焦茶色のよく光る瞳に見つめられると、いまだに眩しいと感じることがある。
「うーん」
 手元を覗き込む。さすが木村が選ぶだけあって「お洒落」だ。永野とて別にそういうものを好まないでもないが、会社ではもう少し「普通」「まともな」サラリーマンでいようと思っているので、難しそうだった。
「なんで老眼鏡」
 ここは遠回りを選ぼう。
「この間、お揃いの老眼鏡をかけてさ、公園で本読んでる白髪のご夫婦がいて素敵だなあって……」
 俺は目が悪くなるのは老眼しかないから、老眼鏡なんだよ。
 その時の会話は、木村が老眼鏡の似合う俳優について話し始めたので立ち消えになった。だが、永野は知っていた。木村はことあるごとにそのサイトを見ていた。
 それが目の前にあった。それを頭の中で木村の顔にかける。こんな癖のあるデザインでも木村の細い顔ならしっかりとかけこなすだろう。そもそも普通に顔がいいのだ。白い、線の細い感じの顔に、よく光る瞳、唇は表情豊かだ。永野はよく映画を見るが、隣にいる人間が、世界一きれいだと思っていることは実は秘密にしている。そう思った時は、鼻梁をただ撫でている。すると木村はまるで猫のように目を細めて鼻筋をこちらに押し付けてくるのだった。
「永野主任もこっちなんですか?」
 声に思考が断ち切られて、永野ははっと振り向いた。遠野がいた。
「いや、俺は……遠野は、家、こっちか」
 永野はそれまでの自分の頭の中の映像を見られてやしないかと、どぎまぎした。そんなことはあり得ないのに。
 遠野は近くの地名を一つ口にした。確かに地下鉄に乗った方が遠回りになりそうなところだった。
「素敵なメガネ! いい値段しそうですね」
 遠野が永野の後ろを覗き込んだ。彼女にはもうカラオケボックスで見ていた店をチェックしにきたことがバレただろう。しかも自分の趣味でないものを。
「確かに高そうだな……」
 その後言葉を失った永野に、遠野は微笑んだように見えた。
「主任は飲むと無口になるの、意外でした。佐藤さんは当てが外れて自分で先に潰れてましたね」
 笑いを堪えるのが大変でした、と遠野は高い声で笑い出した。
「そうか……」
「別に言いたくないことは言わなくていいと思いますし、知らせる必要もないと思います。はっきり、お前に関係ねえって言っていいと思います」
 永野は目を剥いた。遠野はそんなことを言い出すキャラクターには見えなかったからだ。いつも先輩たちの言うことにただ静かに微笑んでいるように見えた。もっと自分を出しても構わないぞ、と考えていたのだが、考え違いだったようだ。
「待ってる人がいる人は、早く帰った方がいいですよ」
 遠野は、一言言うと、「気をつけて帰ります!」と会社の中とは少し違う、軽やかな大股で歩き去っていった。おそらく彼女もそれなりに酔っているのだ。酔いは人を大胆に優しくすることもある。
 永野は、遠野が最後自分の左手を見ていたことに気づいていた。指輪が、冷たい夜気の中、熱を帯びてちりちり皮膚を刺激する。
 違う。ニセモノなんだ。
 永野は呆然と目の前の道を眺めた。人通りは少なかった。虚空の中でただ一人、命綱なく放り出された気がした。

 指輪を先にはめたのは木村だった。ある日、夕食を食べようとして、木村の左手の薬指に細いリングがはまっているのに気づいた。一瞬混乱に陥った。それを見てとって、「あ、言うの忘れてた」と木村は口を開いた。「職場でさ、決まった相手がいるって見えた方が保護者が安心するって言われて。ごめんね?」
 その時一瞬意味がわからなかった。木村は職場で自分がゲイであることを言っている。それで職場をいくつか転々としたこともあったし、もちろんそれで永野が憤ったことはあった。今の職場は全く問題なかったんじゃなかったか? 保護者が安心する? 同性愛者だと何か不都合があるのか? 色のはっきりしない感情が腹の底で渦巻いた。「怒るとこじゃない。ただの保険なんだから」木村はそういうものを飄々と受け流す。仕方がないよ、と笑いながら。「永野も面倒臭かったらしたら?」合コンと見合いの話がうるさい頃だった。それもそうかと永野は木村にどこで買ったかを聞いて、オンラインで注文した。そうして、形ばかりはお揃いのリングをしたことになった。

 眼裏が明るくなって、永野は急速に眠りから浮上した。まだ起き出したくなくて、目を閉じたまま、隣にあるはずの白い腕を探す。あの温もりがないと寒い朝方は好きじゃない。しかし触れたのは冷たいシーツだけだった。
 頭の芯が一気に冷えた。
 今日は土曜日保育の担当の日か……。くそ。
 永野は跳ね起きた。スマートフォンをチェックする。とっくに九時を回っていた。「おはよう。ゆっくりしてね」とLINEのメッセージが来ている。くそ。
 キッチンに行くと、弁当の残りものが置いてある。朝食か昼食にでもしろ、ということだろう。土日の食事は永野の担当だった。弁当だって、週末の木村の仕事の日は作ってやるのに。だから飲み会は嫌なんだ。二日酔いではないのが救いだった。
 顔を洗って、木村が作っていった卵焼きを口に放り込む。色も味もまるで申し分がない。昔は料理をさせたらキッチンが爆発するかっていう感じだったのになあ。
 いつの間にか料理も家事も随分普通にするようになってしまった。学生時代、木村の生活能力はゼロといよりはマイナスで、世話を焼いていたのは永野だったのに、最近はあべこべになる時がある。
 永野は、冷蔵庫から水を取り出して、喉に流し込みながら辺りを見回した。掃除があまり行き届いていないところをチェックし、頭の中でクリーニングや洗濯が必要なもののリストを作り、ついでに夕食と作りおきのメニューも考える。そして、今日は近くのスーパーに農家からの直送野菜が来る日だと思い出し、できるところを手早く片付けて、さっさと家を出た。
 スーパーに行く道すがら、近道のために公園を横切った。黄色やピンクの帽子を被った子供たちが、保育士に連れられて遊びに来ている。土曜日保育だろう。小さいのからちょっと大きいのまで、公園を駆け回っていた。
 木村はこういう子たちと一緒にいるのだ。
 ——あの靴棚からいろんな扉が開くんだよ。
 最初は小さい清潔な靴がちんまり入ってる。お父さんお母さんが入れてくれるからきれいに揃ってる。それがだんだん大きくなる。大きくなって、乱雑に突っ込まれて、靴には泥がはねて汚くて、最後は、靴棚からはみ出しそうな大きさになる。
 いつか、しみじみとそんな話をしていた。あれは確か、冬だった。そうだ、卒園が近い時だった。
 この間年長さんと小学校の参観に行ったんだ。四月からは小学生だからね。そうしたらね、みんな保育園では一番大きいから、いつもお兄さんお姉さんを頑張ってやってるのに、急に小さくなった。自分達より大きな子たちを見てね、小さく可愛らしくなって、目をきらきら輝かせてた……。ああもうお別れなんだって思った。俺の子育ては〇歳から五歳までの永遠の往復列車だから……。ああ、涙が出てしまう。
 そう口にして、木村はさめざめと涙を流した。永野は頭を撫でてやった。卒園する子供たちを思って泣くことは実際よく会った。保育園では底抜けに明るく、時代遅れもいいところの懐メロを子供達に教えてしまう保育士でやっているらしいのだが。
 あの言葉は、どういう意味だったのだろう。
 なあ木村、知っているか、永遠の往復列車でいなきゃいけない、ということはないんだ。
 お前も子供は持てる。木村も女性とつき合ったことがないわけではなかったはずだ、と友人時代の記憶をさらう。結婚して、子供を誰かと作ればいい。
 自分の思考に一瞬ぞっとした。なぜ子供を持つことに、結婚がついてくるのだろう? 結婚をしないで子供を持つことはできないのだろうか?
 それも滑稽だ。そもそも自分達は結婚もできない。自分にそれを語る資格もない。木村と二人でちゃんと一緒にいると、話し合って決めたこともなければ、指輪だってニセモノだ。そのくせ会社では配偶者がいるように振る舞って、「理解がある」なんて言われ、部下にプライバシーには踏み込むなという態度をとっている……。
 スーパーの入り口には、野菜が段ボールに入れられてごまんと並んでいた。柿やりんごもあったが、白菜が安そうだ。時間もあるし、餃子でも作るかな、と考える。うちの——母親の作る水餃子は美味い。自分で色々レシピを見て作っても同じ味にはならない。何を入れたらあの味になるのだろう。訊いてみようか。最近は母親との通信は、レシピの交換に近い。もう親は踏み込んで結婚の催促などをしなくなってきていた。三十半ばの息子が誰かと随分長く一緒に住んでいることは気づいていて、連れてこないとなれば、何かはあると勘づいているのだ。母親は、「健康にだけは気をつけなさいよ」と言う。それには多分母親が会ったことのない木村も含まれている。誰かがいて、ずっと一緒にいる気なら少なくとも一度は顔を見せてちょうだい、とも言われたが。
 ずっと一緒にいる気、なのだろうか?
 永野は段ボールから、つやつやした葉振りの白菜を手に取ったまま考え込んだ。
 いつも考えようとして逃げてしまう問題だった。
 だが、さっきのようなシーツの隣の場所に温もりがないことに耐えられない。木村が自分の生活から消えてしまうことを考えたこともなければ、考える気もない。ならそれは、ずっと一緒にいる気でいるということではないだろうか? そうだ、自分はずっと一緒にいる気でいる。でも、そのことを口にして、木村に「まじで?」と言い返されたらどうする? 
 白菜は水餃子にしても美味いが、ピェンローもいいな。なら白菜は二つ買うべきか?
 「まじで」の先を考えたくないから、いつもうこうやって思考も逃げていく……だからいつも遠回りしてきた。あいつは、俺に答えを迫ったりは絶対しないから、長いつきあいでそんなことはよく知っているから。
 我ながら卑怯だと思った。

 結局レシピは訊いた。
 「うちの味を作るの、そうなの」と母親は何か感心したようなメッセージを寄越した。そして、夕飯の水餃子は大好評だった。「いつもと違うね」と言いながら木村は何個も食べた。
「うちの、子供の時からの味なんだ」
「ふうん」
 土曜日保育のお迎えはいつもよりみんな早めに来たらしく、いつもよりは随分早く帰ってきた木村は、永野と一緒に餃子を包んだ。おかげでいくつかの水餃子は切腹し、保育士にあるまじき手先の不器用さではないかと一瞬思ったが、その変わらぬ不器用さに永野はただ心の中で微笑んだ。
 破けた水餃子をつまみながら、木村はにんまり笑った。「俺は永野少年と味の記憶を共有しているわけだ」
「やらしい言い方をするな」
「やらしいことはひとつも言ってない。普通に嬉しいよ」
 にやにや笑いに切り替えた木村に、永野は腹に一つ息をためた。
「なあ」
「うん」
 なるべく、深刻にならず普通になるように、
「俺の子育ては〇歳から五歳までの永遠の往復列車って前に言ってただろ……」
 木村が大きく目を見開いて、それからくすくす笑い出した。別に笑うことは言ってない。呆気に取られると、「それさ、保育園でも言ったの。みんな俺のことさすがって褒めてくれるけど、往復列車はいやだ、世のお父さんお母さんはレベルアップしてくのにって!」
 そういう話をしたいんじゃない。
「そしたら、石川さんに、わたしも同じよって言われた。同じゲームで最高レベルを極め続けるのよって」
「……」
「石川さんは、四十半ば過ぎててさ、保育士頑張ってたら結婚するの忘れたって……それで、そうだねって思った」
 焦茶色の目がこちらを見通すように色を深くする。「変なこと考えないでよ、晴敏」
 時々重く深く考えすぎるのが玉に瑕だよ……。永野は手を額に当てた。見透かされている。「一体何を考えたの、永野。すごい顔してた」木村はなぜか面白くなったらしく上機嫌になって、鼻歌をやり出した。またあの曲だ。
 ——地球の、男に飽きたところよ!
 最後は声を出して歌い上げてげらげら笑い出した。永野は目を剥いた。うやむやになる前に言うべきことだけは言うべきだ。
「明日、老眼鏡、買いに行こう。お前の見てた店、会社の近くだった」
 木村が猫のように目を瞬かせた。
「お揃いで買おう」
 心の中で、こうつけ加える。その帰りに、ちゃんと指輪も見に行こう。パートナーシップの申請についても話し合おう。
 木村が何度も首を縦に振った。「一生分足りるようにいくつか買うぞ」
 言うとぽかんと口を開けた。返答がない。一瞬不安に駆られる。
「おい。飽きるのは、俺以外にしとけよ」
 弾かれたように、木村が何度も頷く。「耐用年数を確認しなくちゃね」そして、目尻を指で拭った。その指を伸ばして、永野の目の縁も拭った。その指の温かさにまた目の縁が濡れた。
 大丈夫、今更飽きないよ。それに、もうとっくのとうに、永野以外の地球の男には飽きてるんだ。

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