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ウィル・スミスが叩かれるもう一つの理由

ウィル・スミスが大変なことになっていますが、なぜかアメリカでは表現の自由を盾に悪口言い放題な雰囲気があります。

これは別記事

にまとめていますが、一方で心理学的な面からも少し、仮説を述べたいと思います。他者に配慮するには経験が必要だけど、特に心理的な暴力に対して共感するのは経験だけでなく高度な抽象化が必要かもしれません、という話です。

目に見えるものと見えないもの

暴力は大抵の人が経験済みで想像しやすい一方で、悪口の想像は難しいのではないでしょうか。人間には明らかに悪口を受けやすい人がいて、言い返しづらいという格差があります。例えば、ドナルドトランプに「貧乏人は死ね」と言われて腹が立ったとして何ができるでしょうか? 金持ちケンカせず、というのは衣食住が足りているからそれだけ余裕があるというだけであって、金持ちが道徳家であったり温厚であるという意味ではないと思います。

彼にどんな言葉を言い返せばやり返せるでしょう? ほとんど良心を持たないのに、そして経済的には勝ち組なのに、おそらく何を言っても「貧乏人必死だな(笑)」で終わり。アメリカの裁判はお金がかかり、裁判も実質的には金持ちご用達。つまり経済的に強いものは一般に知的係争で負けるはずがないのです。そういう仕組みになってしまっています。

悪口

悪口のうち、最も傷つくのは「事実であるか、事実と誤認される内容」で、なおかつ「コンプレックスである」場合です。友達が多い人に「ぼっち野郎!」と罵倒しても効きません。嘘だからです。一方で、「あいつ泥棒ですよ!」は傷つきます、というか信じられてしまうと迷惑です。

そして、本人が太っていてなおかつ太っていることがコンプレックスであるときに「デブ!」と言われると大変傷つきます。これはやられた人間しかわからないでしょう。ここには大きな格差があります。コンプレックスなど実質的に存在しない人間、うまく隠している人間がいる一方で、病気などで避けられないコンプレックスに苛まれている人もいます。つまり、悪口に対する防御力には根底から違いがあり、悪口の世界こそ「格差社会」なのです。悪口社会の底辺は、言い返すことすらできずぼこぼこにされます。さらに、こう言ってはなんですが一般的に悪口社会の底辺は資本面でも芳しくないと思われます。つまり、やり返す手段も能力もない、そんな中で暴力は(例え敵わないとしても)一定の手段として選択されがちではないかと思うのです。

もしかしてお国柄も関係している?

さて、差別だといわれると困るのですが、アメリカは日本より少しばかり目に見えないものに対して鈍感ではないか、という疑念を抱いていることをここに告白します。目に見えないコロナウイルスに対してアメリカが、アメリカ国民が割と好き勝手に、マスクもせずに過ごしているのは、ワイドショーによる歪曲なのでしょうか? もしかして、目に見えないものを想像しにくい国民性でもあるのでしょうか? 暴力は目に見えるものです。対して言葉の暴力は想像しなければならないものです。この違いが今回のアカデミー賞の件で可視化されたような気がします。

なお、目に見えない神を信じてるじゃないか、というのは僕の観点とは違います。神を信じているというのは、多くの場合「盲目的に信じている」のであって考えたり検証しているのではありません。「コロナは風邪」「マスクは無意味」は科学的な検証なく信じているだけなので、僕としてはこれもまた想像力の欠如と解釈します。

アメリカ人は目に見える暴力に辟易している

例えば、無法として有名なニューヨーク地下鉄は暴力が日常茶飯事(のように報道されます)のようです。

「new york subway fight」

で動画検索すれば、ニューヨークに旅行する気も失せるというものです。さて、これが事実かどうか(本当に高頻度かどうか)は別として、ニュースやインターネットでこういった攻撃の目撃頻度が上がっていること自体、物理暴力を忌避する背景になっているという推論は間違っていないと思います。

こういった、「暴力に対する忌避」は、確かに日本と異なっているなぁ、とは思うわけです。


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