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ウィルスミスは引っぱたくべきだったのか否か

表題について、攻撃の種類の正当性を判断することの正当性について考えてみたいと思います。

先にまとめ

  • 人間を含め、動物は何らかの攻撃をもって生存してきた

  • 攻撃は大まかに分けて「物理攻撃」と「知的攻撃」に分けられる

  • いずれの攻撃も群れや社会にダメージを与える可能性があるので、可能な限り少なくするほうが良い

  • 近代社会や国家は、物理攻撃を警察や軍、知的攻撃を司法やルールとして抽象化、独立させることで平等化や安全化を図った

  • 暴力がいけないとされるのは全員の合意に基づく(べき)もので、絶対ルールではない

  • 社会に格差が生まれていくと、各種攻撃のメリットデメリット、それに伴う抑止力がアンバランス化することがある

  • 特に暴力はどのような社会でも有用なので、アンバランスが顕著な場合に採用されやすくなる

  • 暴力は可能な限り避けるべきだが、そもそも暴力以外の報復手段が十分に用意されているかも考えるべき

  • 国家社会の終焉(革命)は暴力が採択される場合が多く、権力の上にあぐらをかいていることは誰のためにもならない

  • 暴力を忌避するためには常に社会の平等と、不整合に対する「ルール化された攻撃」がきちんと整備される必要がある

攻撃の種類

古来、人間が他者に対して戦いを仕掛ける場合、大きく分けて二つの方式が考えられます。一つは物理的な攻撃、もう一つは知的な攻撃です。時には両方を兼ねる場合もあるでしょう。戦いというものを「攻撃の種類」で分類するなら、アカデミー賞で行われたウィル・スミスによるビンタは物理的攻撃の意味合いが強いものです。もちろん、これにより訴訟合戦が起こる可能性もありますし、世論というそこそこ知的に見える攻撃を誘発するという意味では純粋な物理攻撃ではないでしょう。

一般的に知的攻撃が好まれるのは、社会に対する目に見える形でのダメージが少ないからと考えられます。これは当然で、話し合いで解決できるなら暴力を使わないに越したことはありません。

攻撃の歴史

一方で、これらの攻撃は未だにどちらも大事である点は見逃せません。古代社会から近代国家に至るまで、社会(国家)とは他の社会と戦いながら、社会内部の揉め事を少ないダメージで解決するシステムの発達に知恵を絞ってきました。最も原始的なレベルでは、欲しいものはなんとしてでも取る、いわばドラクエでいうところの「ころしてでもうばいとる」が個人間での最も純粋な攻撃です。

群れという小さな社会を構築するようになると、通常時から争うことは得策ではなくなります。よほどのことがない限り争わずに解決しないと、外敵に襲われたときに対応できないかもしれません。争いを避ける手法はいくつかありますが、最も多いのは

・階級順位・・・あらかじめ階級をつけ、争う前に優先順位で解決する

・時間順位・・・いわゆる早い者勝ち

・分け合い・・・可能な限り分け合う

でしょうか。複数組み合わせる場合もあります。ライオンなど肉食獣では階級がありますが、草食動物では早い者勝ちが多くなります。これは単純に資源量と個数の問題と思われます。草食動物の場合、争う暇があったら新しいものを探すほうが早いので。これが原始的な「法」と看做せます。

一方で、社会が大きくなり、個人間の分業が進むと、役割という形で攻撃の手段と組織が分離、形式化していきます。不当な物理攻撃のうち、内輪もめは警察、外敵との衝突は軍隊が担います。それ以外の攻撃はもっと知的に昇華され、経済的な競争に形を変えます。すなわち、商業的やり取り、知的財産、不動産、労働等の契約などを法制化し、ルールを定めます。例えば他人の不動産は経済ルールに則ってのみやり取りされ、勝手に占拠することは許されなくなります。ここに有形力を持って不当な競争を仕掛けようものなら、対抗勢力としての「警察組織」が動きます。

このことからわかるように、現代でも個人間攻撃は形を変えて継続しています。ただし、ダメージはより少なく、多くの人が納得するルールに基づきます。ルールを守らないならず者には、最終的な物理攻撃として拳銃発泡などの強硬手段がとられますが、これも社会のルールの一環です。

ルールは大衆が決める

ここで大事なのは、「ルール(法律)が民衆の総意に基づいている」ことです。もしも多くの民衆が納得できなくなった場合、政変や最悪の場合は革命が起きます。不動産の取得は、前の持ち主の合意の下で金銭などのやり取りで取引するか、もしくは資産の差し押さえの一環で債務者として取得する以外の手法をとるまでは占有物である、というルールも絶対ではない、ということです。現に、日本(とGHQ)が戦後に行った農地改革では、土地の所有者である地主から土地を取り上げて小作農へ供給しています。買い上げとはいっても実質は収奪であり、同じ事を現代の土地所有者に行ったら大問題でしょう。

社会の継続年数が増えると攻撃の格差が生まれる

一般的に、社会が崩壊したり革命が起きると富の再配分が起こり、一時的に社会の平等化が進みます(これは必ずしも好ましいものではない、特に戦争の場合は)。トマ・ピケティ氏が著書「21世紀の資本」で言及したように、(以下同著P284格差の歴史より引用)

”20世紀に格差を大幅に減少させたのは、戦争の混沌とそれに伴う経済的、政治的ショックだった。平等拡大にむけた、段階的合意に基づく紛争なき進展が見られたわけではない。”

トマ・ピケティ著「21世紀の資本」

しかしその後、資本が資本を生む仕組みは社会に格差を生じさせます。世襲制や世襲財産、相続財産がある限り当然です。そして一般的に、知的攻撃は既得権益と相性が良いように思います。例えば、土地の所有権はいかなる正当性を持つのかといえば、現代においては「所有・相続・売買」という知的活動によってのみやり取りするべきという取り決めがあるからです。これは「法律」以上の正当性があるわけではありません。元々は暴力的に勝ち取った土地もあったはずです。いつの間にか物理攻撃よりも知的攻撃の方がスタンダードになっていますが、競争原理から言って別に物理攻撃だけが悪とは限らないわけです。

勘違いしないでもらいたいのは、僕は物理攻撃に意欲的ではないということです。むしろ逆で、暴力がない社会の方が好ましいと思っています。だからこそ、上記の事実が恐ろしいといえるのです。つまり、社会の格差が大きくなればなるほど、一般民衆が物理攻撃を選択する動機やメリットが大きくなるのです。

映画「カイジ 人生逆転ゲーム」でEカードなるゲームが出てきます。このゲームの説明で「王は絶対的に強いが、奴隷の命がけの攻撃、突発的な暴力にのみ弱い」という説明がありました。一般的に司法は個人や個人の資産を守る役割を持ち、社会の平衡を保つ意図を持ちます。ですが、あまりに権力者や資本家が強くなりすぎるなどの極端な不平等、および独裁制のような状態では、司法を守ることのメリットよりも、司法を破るような強硬手段をとるメリットが大きくなる(少なくとも多数がそう考えるようになる)ことがあります。

独裁者が国を食いつぶしているような状態で、「暴力は許されません!」などと綺麗事を言っていることはできないのです。また別の例でいえば、共産主義や社会主義でも法を破ることのデメリットである財産や信用に対するダメージが相対的に小さくなるので、物理攻撃が有効になるのではないかとも考えられます。

日本でも起こりかけた暴力的な改革

ヨーロッパではフランス革命のような形で、王制から民主主義への権力移譲が暴力的に血みどろで実施されました。日本においてもざっくり言えば三段階、「江戸幕府」→(大政奉還、明治維新)→「天皇&明治新政府」→(日本国憲法発布)→「日本国政府」という移行が成し遂げられます。明治維新の複雑さはとても理解しきれるものではないですが、ここではもうただの事案としてまとめます。大事なのは、日本における2度の革命は”それほど”には暴力は使われずに済んだという点です。もちろん戊辰戦争や西南戦争などはありましたが、革命そのものに支払った血肉は諸外国に比べると比較的少なくて済みました。ただしこれはかなり運が良かったといえ、特に江戸幕府が攻め滅ぼされずに済んだのは奇跡です。

また植民地化も免れ、さらには不平等条約改正も暴力を使わずに済みました。実はこれも危うかったとされています。日米修好通商条約において、(後から考えると)日本はかなり不利な条約を締結していました。この条約(契約)についてはまさに知的攻撃の一種なわけですが、日本からすれば井伊直弼が勝手にやったというこちらの事情もあり、大きく分けて二つの路線があったとされています。それは

・破約攘夷・・・武力により契約を白紙に戻し、公平な条約を締結しなおす

・大攘夷・・・まずは日本の国力をつけ、国際的な立場を確保してから条約を締結しなおす

というものです。もちろん歴史が示すとおりいずれの攘夷も採用されず、日本はそのまま富国強兵の道を選ぶわけですが、指摘したいのは破約攘夷の意義です。明らかに破約攘夷は乱暴ですが、もしも諸外国が日本を侵略レベルで搾取しつづけたとしたら、その世界線で武力を使わないというのは常に可能でしょうか? これもまた日本は運が良かったといえます。

逆に言えば、既存の組織や権利主体は、暴力的な革命を恐れ、そうならないよう回避すべきですし、暴力沙汰以外の解決方法を常に用意しておくべきです(今のロシアが恐らくは持っていないものです)。

暴力は常に有用であるからこそ危険である

現に、世界大戦は多くの傷を残し前代未聞の痛みを与え世界を徹底的に破壊しましたが、一方で植民地はほとんどなくなりました。これは武力無しになしえたのでしょうか?世界大戦前の世界は、植民地が武装蜂起するまでもなく、彼らに人権を戻し、土地や既得権を戻すほど賢明で無欲だったのでしょうか?

このことから僕が主張したいのは、

  • 武力(物理攻撃)は、マイナス面が大きいので可能な限り避けるべき

  • 知的攻撃は、少なくとも物理攻撃を下回る程度に留めるべき。言い方を変えれば、知的攻撃によるダメージが、物理攻撃で応戦するほどであってはならない

  • 物理攻撃が知的攻撃に対する応酬として採用された場合は、知的攻撃の方がやりすぎではなかったか検討するべき

ということです。

ウィルの件で言うと、彼が受けた知的攻撃のダメージは大きすぎ、一時的とはいえ物理攻撃が採択されてしまいました。物理攻撃はよくないというのは誰でもわかることですが、それをしてしまうほどひどい口撃ではなかったか、もう一度よく検討して欲しいと思います。

個人的にアカデミー賞の件は、

個人的悪口に鉄拳制裁をしたのなら他人が口を出すべきではない。アカデミーショーは黙ってろ。

OR

アカデミー賞のプレゼンターとして悪口を言ったと捉えるのなら、アカデミーショーも加害者の一人だ。偉そうに裁定するとか言ってないで、演出の趣味の悪さを反省しろ。

です。


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