思わずカッとなってしまう自分の、無意識をさぐること。
こんにちは、ゆーのです。
↓自己紹介
対話と場づくりの人。散策者所属。東京大学物理工学科。ワークショップ企画運営の軸に《場のゆらぎ》を据えています。関心キーワードは現象学、組織文化。最近はもっぱら、オンラインにおける対話の可能性と限界について考えています。Twitterはこちら。
思わずカッとなってしまう自分について、考えてみる
誰にでも、思わずカッとなってしまうことや、思わず怖くて泣きたくなってしまうことがある。
そのきっかけは誰かの言葉だったり、街角の広告だったり、家族の何気ない行動だったり。
そして僕は今、自分の中で発動する「思わずカッとなる」仕組みに興味がある。
「思わず」や「ちゃんと」、「やっぱり」という言葉には、その人が無意識のうちに前提としている価値観が滲んでいる。
だから、僕が「“思わず”カッとなって」しまうことの裏にはきっと、僕自身が暗黙のうちに前提としている価値観があるはずなのだ。
前置きは置いといて。
とにかく僕は最近ずっと、Twitterを眺めては、「思わず怒ってしまったTweet」「思わず言い返したくなるTweet」を見つけて、どうして自分がそう感じるのが分析してきた。
傾向はまだ掴めていないが、それとは別に、ある面白いことが見えてきたので、今日はそのお話。
今日話したい“面白いこと”とは、「同じような内容のツイートでも、なぜか怒ってしまう時と全くそうでない時がある」という現象についてだ。
「モテる男って男を磨く努力してるよねー」
ひとつ、僕が実際に「思わずカッとなった」例を挙げてみることにする。
例えば、こういう状況。
僕の知らない誰かが言った「モテる男って男を磨く努力してるよねー」という言説が、巡り巡って僕の耳に入った。
僕は別になんとも思わない。何か思ったとしても「だよね、すごいと思うわ」くらい。
振り返ってみるとこの時、僕は「モテる男は〜」というこの言説を、良い意味でも悪い意味でも他人事に捉えている。
僕自身にも“モテる男論”みたいなものはあるし、この言説に「それは違うんじゃないか」と物申したいこともあるが、それはそれとして冷静に違いを認めることができている状況だ。
一方で、こういう状況があった。
言説の内容は全く一緒だが、こちらは僕の心をささくれだたせたのだ。(実際、この言葉を見たときにまあまあイラッとした)
先ほどの言葉と比べると、違うことといえば、“ちゃんと”という単語が入っていることだけだ。
それなのになぜか、僕は「は?別にそうじゃない男もいるし」と突っ掛かりたくなる。
どういう仕組みでカッとなるのだろう
まずは、僕がつい言いたくなってしまった言葉についてちょっと考えてみる。
すると、なぜか僕は、この言葉がまるで僕に向けて発せられており「お前がそうなるべきだ」と言われているように感じていることがわかった。
もちろん発言からわかるように、発言者からすれば僕の受け取り方は全くの言いがかりにすぎず、甚だ迷惑なことだ。その人はきっと、僕のことを知ってすらいない。
この時僕のなかで渦巻いているのは、
「冷静に議論したい」というよりも「なんとかして否定したい、違うと言いたい」という欲望、いや、もはや衝動だ。
それでは、どのような仕組みで僕は衝動的に「思わずカッとなってしまう」のだろう?
それを考える上でのキーワードは、これまでに登場した「自分ごと」「他人事」という言葉であると考えている。
まず、「ちゃんと」という言葉がない時、僕は、他人の発言と自分を、適切に切り分けることができていた。(=良い意味でも悪い意味でも他人事だった)
イメージは、自分と他人の間に壁がある感じ。
それが、「ちゃんと」という言葉が入っていると、僕は途端に他人の発言と自分を、適切に切り分けることができなくなってしまう。(=変に自分ごと化している)
こちらのイメージは、「ちゃんと」という言葉に引っ掛けられて、“自分”が(無意識のうちに)壁の外側に拡張している感じだ。
つまり、どうやら僕にとって「ちゃんと」は、「自分」に直結する言葉らしいのだ。
確かに考えてみれば、僕は「ちゃんとしたい」という欲求を強く持って生きてきたし、小さい頃怒られるときによく言われた言葉も「ちゃんとしなさい」だった。
だから僕は、ちょっと強迫的なまでに「ちゃんと」という言葉に敏感で、「ちゃんと」が含まれた言説には引っかかって、自分のことのように思ってしまうのかもしれない。
ここで議論の出発点に戻る。
僕は、自分が無意識に前提としている価値観を解き明かすために、自分が「思わずカッとなる」出来事について考え、その仕組みを明らかにしたいと思ってきた。
そして今回、その実践を通して浮かび上がってきたのは、
「僕は無意識に「ちゃんとしたい」と思っているから「ちゃんと」という単語に引っかかって、カッとなる」という仕組みだ。そしてこの結論には、今のところ僕自身は納得している。
こうして1つ、僕が生きる上で無意識に前提としている価値観が明らかになった。
差別の入り口に立ってしまっている僕は、無意識と戦い続けることしかできない
急に話を大きくするけど、ここまでダラダラとやってきた一連の思考は、自分の偏見や差別意識に向き合う1つの方法だと僕は思っている。
僕の偏見や差別意識は、あまりに僕の無意識に埋め込まれてしまっている。だからこそ、僕は自分の無意識を問い直す必要があるのだ。それでこうやって思考を巡らせてる。
無意識って厄介で、普段は意識できない。(当たり前か)
でも、無意識を探るための入り口はあって、それが「やっぱり」「思わず」「ちゃんと」みたいな言葉だったりするのだ。
要は、「思わず怒りがこみあげた」時や「思わず悲しくなった」時は、自分の無意識と向き合う絶好のチャンスなのだ。
ただ、「思わず怒りがこみあげた」時や「思わず悲しくなった」時ほど、感情と言動が直結してしまう。それが難しい。
僕もまだまだできないけれど、これからも「思わず」「やっぱり」「ちゃんと」を感じたときは、言い返したくなる衝動を抑えて、自分の無意識と向き合っていきたいと思う。
今日、僕は自分の無意識を1つ見つけた。これで将来僕が傷つける人が1人くらいは減ったと信じたい。信じている。
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