「怒られたこと」と、向き合えた話
恥ずかしながら、ぼくは怒られることがとても怖い。
それは生まれ持った性格なのか、はたまた“いい子ちゃん”として生きてきたからか…。理由はよくわからない。
今、ぼくは教習所に通っているのだけれど、先週、ぼくは教官に怒られて凹んでいた。
今日はそのお話。
今思えば、全然大したことじゃない。
マニュアル車で難関とされる“坂道発進”。そこで案の定エンストしたときに、教官が舌打ちをして「早く(エンジン)回せ」とイラついた態度をとった。それだけ。それ以降も不機嫌ではあったけど、別になにか怒鳴られたわけでもない。
でも、ぼくの中では「やばい、教官怒ってる!」という恐怖がどんどん頭のなかで増幅して、手がつけられなくなった。それに呼応するように汗がダラダラ流れてきて、みかねた教官が無言で助手席側の窓を開けてくれたほどだった。(優しいね)
どうにかこうにか、その日の教習を終えて、帰路に着いた。
ほんとは些細なことだったはずなのに、ずっと「怒られた…。怒られた…。」と考えるせいで、恐怖はさらに増幅して、すっかりぼくの頭をおおうほどになってしまっていた。
それでも、まだ「これは良くない」と思えるだけの理性は残っていた。このままではツライし、トラウマになったら教習所に行けなくなってしまう。
そこで、ぼくは友達に相談した。
1人目の友達は「いるよねぇ〜、そういう人」と言った。
それは、増幅しきった恐怖の重みを、綿毛のように吹き飛ばしてくれる言葉だった。
2人目の友達は「機嫌わるかったんかな?かなわんなぁ」と言った。
それは、「ぼくは永遠に嫌われたままだ」と思い込んでいた偏見に気づかせてくれた。
3人目の友達は「かわいそうに…」と言ってくれた。
それは、増幅する恐怖とひとりで戦っていたぼくの心の支えになった。
みんな、ぼくの味方だった。
まったく違う3人の視点が、それぞれぼくに溶けこんだ。そして、彼らの言葉は、その教官と向き合おうとするぼくの勇気の手綱を一緒に握ってくれていた。
増幅しきった恐怖も、いつの間にかなだめられ、すっかり元の大きさに戻っていた。
そしてむかえた、今日。
その教官が担当になった。その教官の名前をみた瞬間、やっぱり「ひぃ」と思ってしまう。
そりゃそうだ、恐怖は消えたわけじゃない。勇気を支えてくれる言葉を得ただけで、この恐怖に立ち向かうのはぼくにしかできないことだ。
「自分から壁を作らないこと。」と、なんどもなんども心に言い聞かせて、教習が始まった。
教官は穏やかだった。本当にあのときと同じ人だろうか、と疑うくらい。指示も優しく、記憶にあるぶっきらぼうさは微塵もみあたらない。
最後には、ぼくが犯したヘンテコなミスを一緒に笑って、教習は終了した。
なんだか拍子抜けだったけど、こんなものなのかもしれない。
前回のあの日、どうしてあんなに機嫌が悪かったのか。
そもそも教官は、本当に機嫌が悪かったのか。
今回、どうしてそんなに穏やかだったのか。
いくら考えても、そういう疑問に「これだ」という答えは出ない。だけど、今日ぼくらは穏やかな関係を築けた。その事実だけが、本当だった。
ぼくらは所詮他人で、それぞれの人生を生きている。お互いの機嫌も、行動も、わかりあえるはずがない。
この教官にぼくが教習を担当してもらうこと。それは、そんな他人同士が、ある1つの交点を持つことにすぎない。ぼくたちは、同じ車に乗り合わせる、というかたちで関係し、そうしてまた離れていった。
ただ、それだけのことだった。
でも1つ良かったのは、今日の“関係づくり”をフラットにむかえられたこと。ぼくは友達の言葉を借りて増幅する恐怖をなだめられていて、教官に「自分のなかの恐怖」を投影することはなかった。
教官を「その人としてそのまま受け入れる」っていうのは難しくてわからないけれども、余計な要素はとりのぞけた。それが、今日のぼくの進歩だったのかもしれない。
こうやって、今日も明日も、ぼくはいろんな人と交点を持っていくのだろう。まっさらな関係がつくれるために、自分と向き合いながら。
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