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学び

電車の座席に少女が座っている。3歳か、4歳か、両足をつけることができない。そんな小さな子が、母親のスマートフォンを使いこなしていた。おそらく、学び系のアプリだ。

私が小さい頃は、物理的な学びアイテムしかなかった。例えば、「あ」を押すとテコの原理で「アイス」のシールが貼ってある部分が立ち上がるというものだ。カチッというプラスチックが擦れる音が懐かしい。

後に「アイス」としゃべるようになり驚いたが、今では、デジタルを駆使して様々な学びを得ることができる。足をつけて座れない小さな子供でさえも、学び舎は小さなスマートフォンの中にある。

この子が大人になる20年後は、どんな世の中になっているのだろうか。20年前といえば、2つ折りのガラケーが流行り始めた辺り。凄まじい速さで発展していくIT技術に、私はついていけるだろうか。正しく理解し、使いこなすことができるだろうか…。

年老いてから新しいことを覚えるのは難しい。電化製品が少ない時代を生きてきた母親は、携帯電話やテレビのリモコン、電子レンジも殆どの機能を使うことができない。生活に必要な最低限の操作が何とかできる程度である。

84歳になっても元気に歩き回る父親ですら、タブレットでGoogleアースを見るくらいが限界である。努力すれば覚えられるかもしれないが、気持ちが追いつかないそうだ。新しいことに興味がなくなり、世間に取り残されていく。

未来を想像する。末っ子の自分は順当にいけば最後の1人になる。親族と呼べる人は姪っ子のみ。世間に置いていかれることに恐怖を感じるだろう。

「知らない」「わからない」「ついていけない」は詐欺の餌になる。子供がいない私がオレオレ詐欺にひっかかることはない。だが、世の中が変われば、変わる前の世代に合わせた詐欺が生まれる。電話もメールも信じることができず、引きこもってしまうだろう。

妄想がすぎるかもしれないが、可能性はある。そんな未来にならないためにどうするべきか。考えなければならない。

実行するのは難しいが、「学びを習慣化する」というのはどうだろうか。続けることの難しさは誰もが知るところではあるが、他に良い案が思いつかない。

70歳を過ぎてからジョギングを始めようとしても、健康で根性のある人でなければ続けることは難しい。しかし、20代の頃から習慣化していたならば、年老いても走れる可能性は高い。何事も始めるのは1分1秒でも早くが正しい。

私はもう40代だが、遅くはない。まだ「新しいこと」に対して興味を持っている。もちろん机にかじりついていることだけが学びではない。多くのことを見聞きし、ワクワクする気持ちを失わない日々を送る。「なんでだろう」を持ち続けることも学びである。

そうして、新しいことに挑戦し、学び続けられるような老後を迎えられたら、どんなにいいだろう。若者と楽しくおしゃべりできるおばあちゃんに、私はなりたい。


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