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田中と

 田中は同期だった。
 その年、新卒で入社した五人は、田中をはじめとして妙に馬が合った。そのため、誰が誘うでもなく、金曜の夜、仕事終わりには自然と飲みに行くようになっていた。
 話すことは他愛のないもの。社会人になっての驚きや苦労、仕事のささやかな愚痴を偉そうに語る。とは言ってもまだ学生気分が抜けきらないせいか、「お疲れ様」と言いたいだけか、とにかく飲みたかっただけなのかもしれない。

 五人のなかで、田中はいつも、うんうんと頷いては静かに笑っていた。自分からあまり語ることはなく、ただみんなの輪の中にいて、にこにことウーロン茶を飲んでいた。
 そう、田中はまったく飲めなかった。
 他の四人が「とりあえずビール」を合い言葉に乾杯するなか、田中だけは「いつまでもウーロン茶」を貫いてグラスを掲げた。
「田中は、飲めないんだもんな。労働の後の至極の一杯を味わえないなんて辛すぎる」
 ジョッキ片手に小突かれても、
「いや、俺はみんなと一緒にいるのが楽しいから」
 そう言って田中は笑った。そして
「それに、みんなの話、全部素面で覚えてるから、もし言った言わない問題でくだらない喧嘩になりそうな時は俺を呼んでよ。証言するから」
 と付け加えて、涼しい顔をするのだ。
「田中恐いよ」
「俺が酔って言った色々は忘れてくれよ」
 他の四人は田中を取り囲んで盛り上がった。
「冗談はさておき、何かあったらドライバーにもなれるから頼ってくれていいよ。まあ、乗る機会が全然ないから、腕は保証しないけど」
 都心で車の必要はなかったものの、田中がそう言ってくれるのが嬉しかった。田中がいれば安心、という不思議な安定感がそこにはあった。

 だからいつも田中がいた。

 居酒屋ではテーブル席で二人ずつが向かい合って座り、田中はいつも二人の真横に位置するような、俗に言うお誕生日席を選んだ。
「なんで田中、いつもそこ座るの? 遅れたならまだしも、最初にきた時もそこ選ぶよな」
 誰かが訊くと、田中はすました顔で答える。
「だってここ、主役席でしょ?」
 冗談かどうかはさておき、田中が好きで座っているなら、と誰も止めることはしなかった。だから誰からも田中が見えたし、田中は全員の顔を見渡せた。

 半年が経つのはあっという間だった。新人研修が終わり、それぞれの配属先が決まった。四人は本社内で部署に分かれたり、残ったりしたため、同じ敷地内だった。
「そっか、じゃあ俺だけか」
 田中が、いつもと変わらない笑顔で告げた配属先は、敷地外だった。
「そんな遠くに行くのか。寂しくなるな」
 と誰かが言えば、
「ちょっと離れるだけだって」
 と田中は答えた。
「いや、ちょっとじゃないだろう」
「そうだよ、新潟って……」
 と誰かが驚くと、
「でも同じ日本だし」
 と田中は大したことないかのように答えた。
「まあ、そうだけど……」
 だからみんな、押し黙った。
「じゃあ、送別会やってよ。でも新潟支店に行くだけだから、別れるわけじゃないし。お見送り会? みたいな飲み会でいいから」
 と田中が言ったので、出発前、早速いつもの居酒屋で集まることにした。

 乾杯の声は、田中だった。
「だって俺、主役席だから」
 そう言って笑う田中に、みんなも笑った。
「今度連休でもあったら遊びに行くよ」
「社宅だよな。ちょっと興味あるから泊まらせてよ」
「五人で雑魚寝は辛いかも」
「ひどいな」
「とりあえず、乾杯」
「乾杯」
 そうだ、同じ日本だから、いつでも行ける。新幹線ですぐだ。
「新潟っていったら日本酒がうまいんだろ? 飲めるようになっちゃったりして」
「俺はとりあえずウーロン茶でいいよ」
 田中はいつもと変わらなかった。
 五人はそれぞれの場所へと動き出した。

 田中がいなくなって変わったのは、四人だった。
 それぞれが配属先に着いてから一ヶ月。久しぶりに、四人だけでも飲みに行こうということになった。
 いつもの居酒屋で、これまで通りに「乾杯」を唱えた。「とりあえずビール」のジョッキが弾ける音は変わらなかったが、何かが違った。四人席のテーブルには、四人が座っている。それだけだった。それなのに、物足りない。
「田中、元気にしてるかな」
 空いた主役席を見ながら誰かが言った。
「この間連絡したら、支店長と営業所に挨拶に言ったって言っていたけど」
「実は俺もこの間久しぶりに……」
「お前ら、田中を恋しすぎ」
 四人は、いない田中の話で盛り上がった。
「でも田中からは連絡こないよな。寂しがってるのって、俺たちだけなのかな」
 その後、四人で飲み会をすることはなかった。誰が言い出したわけでもなかったが、誰も言い出さなかったから、集まらなかったのだ。

 翌年の夏。
 誰かが言い出した。
「お盆休み、時間あったら、みんなで行かないか?」
「実家に顔出してからなら時間あるよ」
「賛成」
「じゃあ、連絡取ってみるよ」

――久しぶりに、乾杯しないか?

 行こうと思えば、行けたのだ。日本は思っていたよりも狭かった。いや、近かった。 
 玄関のチャイムを鳴らしたら、田中が出てきた。記憶の中よりも少し髪が短くなっていたが、笑顔は記憶と変わらなかった。
「久しぶり」
「うおお、元気にしてたか?」
「変わらないな」
「変わったな」
「お邪魔します」
 どやどやと四人は田中の部屋へ上がった。
 夕方だった。田中がおもむろに冷蔵庫を開け、中から缶ビールを取り出した。
「みんな、飲むでしょ?」
 すると四人は顔を見合わせた。
「田中、お前なんて気が利くんだ」
「わかってるね、田中」
 そしてあることに思い至った。
「もしかして、田中……」
 全員に缶ビールを渡した田中が、最後に冷蔵庫から取り出したのは、琥珀色の小瓶だった。
「飲めるようになったのか?」
 注がれた視線に気づいた田中が、小さく笑った。
「ああ、これ?」
 そう言って栓抜きで瓶の蓋を弾いた。瓶の中には無数の水泡が動いている。
「ビールじゃないよ。ジンジャーエール」
 その言葉に、みんな「なんだぁ」「残念」と言い合ったが、笑顔だった。
 田中が変わっていなかったことが、嬉しかった。
「ウーロン茶じゃないんだな」
 すると、田中が、
「なんだかさ」
 と一瞬伏し目がちになって言った。
「みんなと飲んでいた時の気分を味わいたくて、こっち来てから買うようになってさ。この炭酸のシュワシュワって感じ。アルコールじゃなくても、ちょっとビールっぽいからさ、労働の後の至極の一杯な気分ってやつ?」
 それを聞いた四人は、思わず顔を見合わせた。もちろん、笑顔で。田中が自分たちを忘れていなかったことが嬉しかった。一人飲まない田中が、あの飲み会を想っていてくれたことが嬉しかった。どこにいても、飲めなくても、同期の田中は、飲み仲間だったのだ。
「じゃあ、乾杯の挨拶は、主役に頼もう。田中、頼むよ」
 そう言うと、田中は変わらない笑顔で小瓶を掲げた。四人は缶ビールを開ける。
「乾杯!」

 気持ちは変わっていなかった。
 だから何があっても、あの日の乾杯は忘れない。
 たとえ会えない日が続いても、会えていた日の乾杯の思い出は消えないのだから。だからいつかまた、乾杯しよう。

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