お米の国の子どもたち

その昔、食道楽だった祖父は食材に特にこだわり金銭に糸目をつけませんでした。
おかげでまだ10にも満たないころに、様々のものを食べてきました。
大人になって価値がわかりますが、脂っこいものや癖のあるものが苦手な私にはどれもこれもおそるおそる口に入れては何とか飲んでいたものも多かった。


けれどもその中でひとつだけ、心底愛していた食品がありました。

お米です。


祖父が馴染みの酒屋さんから取り寄せていた、魚沼産コシヒカリは最高でした。

和紙を模した半透明のビニール袋に入ったお米はこども心ながら美しく見え、中央に『日の本一(ひのもといち…?)』、だったか、ちょっと記憶が曖昧だけれど、太陽の赤い丸の背景と、筆文字で堂々と書かれた名前は渋いのを一周回って洒落てたなあ。


その頃の私は、今にもまして変わっていました。
子どもだから我慢も、誤魔化しも、恥じらいもなく、相当なこだわりを持ったまま毎日を生きていました。

当時の夕食は食卓を整えてから、自室の祖父を呼びに行き、祖父が席に着いて一口目を口に入れたら他の家族も食べて良いことになっていました。

祖父は数人の職人を抱えた小規模会社の社長だったので、仕事の話が終わっていればすぐに食卓へ着いてくれたけれど、30分以上待たされることもしばしばでした。(あまり長引くようなら、お先に頂いてもよろしいでしょうか?と聞きに行く)

食べることに関心の薄かった子どもの私は、待つのはかまいませんでした。
だけど、お米が冷たくなるのだけは我慢なりませんでした。
そこでいつしか、私はお夕飯の時に空っぽのお茶碗のみを用意して貰うように母にお願いをしました。

『いただきます』のあと、いつもおかずとおつゆを先に食べて(一品ずつ食べ終わるのが好きで、三角食べを推奨する大人たちからいつも三角食べ!三角食べ!と注意を受けていました。西洋のテーブルマナーでは一皿ずつ片付けるのが正しいのに、なんだってあの頃あんなに三角食べをすることを強いられたのか、今でも腑に落ちません。)食べ終わったら、自分の食器を全て流しに下げて、そのついでにお箸をサッと洗います。

それから改めてお茶碗にお米をよそい、あたたかな器とキレイなお箸を持って食卓へ戻ります。そこからはご飯のおトモと心ゆくまで白米を楽しんだものでした。

祖父がお酒呑みだったので、ご飯のおトモは常に冷蔵庫に備えてありました。
塩鱈、塩こぶ、しば漬け、奈良漬け、イカの塩辛、たらこ、うめぼし、ネギ味噌、味付け海苔…
良い卵のあったときは、真打ち卵かけご飯のご登場となりました。

真っ白で、モチモチで、ほかほかと湯気をたてるご飯が、自分の手のひらのお茶碗のなかにお行儀よく、また程よい量で盛られた様子を見るたびに、私はいつも、日本に産まれてきて本当に良かったと心底思っていました。


時は経ち令和。
血は争えないものです。
3人の子供を授かりましたが、みんなかなりのお米好き。

特に次女は、学校から帰ってくると、お米をおにぎりにしておやつとして食べています。

今は裕福でもなんでもない普通の家庭ですから、地場産のものを直売所で年間契約をして買っています(一年で約200kg予約している)。
あの子供の頃に食べたお米に比べると、なにか一味足りない気もしますが、それは単に子どもならではの情熱と純粋さによる味覚補正かも知れない。魚沼産コシヒカリを今買う余裕はないので笑、比べようもありません。
地産地消・サステナブルということで、一件落着。

さて先日買い物をしていたら、通りかかったおもちゃ売場の液晶テレビからこんな声が聞こえてきました。



にぎにぎ♫
こめこめ!

ハートを♫
こめこめ!





あのプリキュアに、お米のヒロインが…
変身シーンもとても可愛く、数年ぶりに日曜日の朝プリキュアを見ています。
(数年前変身ステッキを振り回していた次女からは、お母さん子どもみたーい!大笑いされています。子どもの成長は早いなあ…)




今世界で本当に色々なことがあります。
ミサイルや爆弾なんか作らないで、美味しいご飯をみんなで作って食べたら楽しいのになって思います。
争いはいつだって小さな子どもたちや、弱い立場の人、余裕のないところから辛い目に合わされる。

権力のある大人たちには、どうか知恵を絞って暴力以外の方法で解決してほしいです。
でなければ人間は、何のために進化してきたのか解りません。
いずれみんな確実に土に還るのに、弱い人から奪ってまで何を欲しがるのでしょう?

うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる

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