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障害者の私が思う「重度障害者の命」の重み

2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件は私自身が障害者だからこそ、より衝撃を受けた。

世間では、これまで蓋をされてきた障害者の未来への悲観や家族の負担が明るみに出たと報道されることも多かった。ネット上では重度障害者に対して「親は楽になったな」などといった、心ない言葉が飛び交うこともあったと記憶している。

そうした言葉に触れるたび、どこかで肯定しながらも、否定している自分がいた。正直、綺麗ごとだけではいかない障害者福祉・介護の世界を見聞きしたことがあるから、我が子の未来を心配しなくてよくなったことは親にとって「肩の荷が下りる」ことに繋がることもあるのではないかと思った。

けれど、その一方で本当にそうなのだろうかと、犯人の偏った思想に不快感を覚える自分もいた。

重度障害者やその家族には、「そんな体で生きていかなければいけないなんて、可哀想」や「親は一生、大変だろう」などといった、辛辣な言葉が向けられることも少なくない。

けれど、当事者じゃないのなら、その人たちの人生に口を出す権利はない。家族の負担が重いとか、本人が苦しそうだとかはどの人にも当てはまるものではないからだ。

体の自由がきかなくても、言葉が自由に話せなくても、生きていてほしいと思う家族だっているし、生きていたいと思う当事者だっている。ただ、生きていてくれるだけで、生きていられるだけで笑顔になれる日だってある。

病院の待合室で、家族が首からチューブを入れて痰の吸引をしている車いすの女の子を見て、そう思った。

彼女はおそらく、話せないし、歩けない。痰の吸引時は身体が前傾して、苦しそうだった。けれど、吸引時以外は彼女も家族も笑顔だった。「頑張ったね」と背中を撫でられて、にっこり笑う彼女や、些細な行動や表情の変化から「あー、なにか企んでるね」と笑う家族の姿からは「生きてほしい」「生きたい」という気持ちが感じられた。

もちろん、大変なことはたくさんあるだろう。しんどい日だってあるだろう。けれど、あの家族はおそらく”幸せ”だ。

そうした家庭もあるからこそ、第三者が身勝手に家族や当事者の気持ちを勝手に決めつけて命を奪うのは、やはり違う。

そして、街中で重度障害者やその家族に対して、「可哀想」や「大変そう」という決めつけの視線を向けるのも違う。もっと広い視野で、私たちは誰かの人生を見る必要があると思う。

そんな気づきをくれた、あの家族が今日も笑えているといいな。

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