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死ぬために生きること、もうやめる

ずっと思ってた。私なんて、どうなってもいいって。自分が死んだとき、他の人に迷惑が掛からないよう、金を貯める。そのためだけに生きていた。死ぬために生きていた。

だから、食事も健康もどうでもよかったし、自分の命なんて惜しくなかった。どうせ、欠陥を持って生まれてきた命だ。欠陥品の自分だ。小さい頃に失っていたかもしれない命だ。だったら、それをどう使おうが、早く死のうが勝手だろって思ってた。

そんな風に自分を大事にしない生活を続けていたら、顔面神経麻痺になった。死ぬのは怖くない。けれど、顔が崩れたまま生きていかなければならないかもしれないという事実は怖かった。ストレートに言えば、体が動かなくなって、死んだほうがましだと思った。

自分なりに頑張っていただけだったのに。どうして、自分だけいつも幸せになれないんだろう。不幸が寄り添ってくるんだろう。そう思った。絶望しかなかった。

そんな、絶望しか見えない時、人の優しさをたくさん感じた。私に「書く」という居場所を残し続けてくれるクライアントさんがいて、自分のことを心配してくれる身内がいて、話を聞いてくれる人がいて、役立つアイテムを送ってくれる人がいて、復帰を待っていてくれる仲間がいて、あったかい言葉をかけてくれるフォロワーさんがいた。

そうした想いに触れて思った。死ぬために私は生きてきたけど、その生き方はこういう風に私のことを想っていてくれる人を何年も傷つけていたんじゃないかなと。

自分の人生だから勝手に生きて、勝手に死ねばいい。いつでも死ねばいい。そう思ってきたけれど、そうした私の生き方を見ながら、私のことを大切に思ってくれている人は心配し、悲しかったんじゃないかなと初めて気づいた。

自分のことは後回しで、誰かを優先にする生き方をしてきた。そのほうが生きやすかったし、存在理由みたいなものも感じられた。でも、私が私を大事にしないことで、悲しんでいたり苦しんでしまったりする人がいるのなら、これまでの誰かを優先する生き方では、その人の気持ちを優先できないからダメなんだと思った。

いきなり自分を大事にすることは難しい。仕方が分からない。でも、死ぬために生きるではなく、笑うために生きると、生きようと思うために生きていこうと少し思った。せっかく、また笑えるように表情筋が回復してくれるのだから、私の顔にこれまで以上に色々な表情を刻み込ませてやりたい。

きっと私は「死にたくない」と「生きたい」と言う勇気がなかった。口にすれば、また死を強く意識してしまうから。自分が、普通の人生を望めない存在だと痛感してしまうから。

生きたいと願うことは、許されないことだと思っていた。諦めながら生きていかないと、自分の背負っているものに耐えられなかった。でも、背負っているものも含めて、大事だよって思ってくれる人がたくさんいるんだって気づいた。

ちゃんとご飯を食べる。持病の薬は飲む。そんな当たり前のことから、少しずつ「私」をもう一度、作ってみよう。私を大切に思ってくれる人たちに悲しい顔をさせない生き方を考えたい。そんな人がいるっていう事実を、ちゃんと心に刻み込んでおきたい。

そう学べたから、この病気にいま、なってよかったと思う。




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