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「差別をしない」と自認する人によるマイクロアグレッションの厄介さ

とある大臣が会見の際、ある記者の日本語での質問に英語で返したことがマイクロアグレッションだと話題になっている。おそらく記者の容姿とアクセントから、大臣は「外国人」と判断し、「外国人なら英語!」という発想になったのであろう。ちなみにその記者は「日本語で大丈夫です。馬鹿にしないでください」と返していた。にもかかわらず、大臣は質問への答えをはぐらかしたあとで最後にわざわざ「日本語わかっていただけました?」と聞いていた。シンプルに失礼である。

マイクロアグレッションとは、意図した差別や攻撃ではないが、無知やアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)ゆえに相手を傷つける言動を指す。あらからさまな差別ではないが「嫌な思いをする」という経験だ(定義について詳しくは「IDEAS FOR GOOD」にわかりやすくまとめられている)。

特定の人々が嫌い!というわかりやすい差別ではなく、見る人によっては差別に見えない細かなやりとりだからこそ、多数派である人々は無視できる、という不公平な構造があるのがマイクロアグレッションである。(「IDEAS FOR GOOD」記事より引用)

思い返せば私はこれまで無数のマイクロアグレッションを受けてきた。これが厄介なのは「自分は差別などしない」と自認している人が無意識で行う点である。そして、相手にあからさまな悪意がないからこそ、じわじわとダメージを受ける。ここでその一例を紹介したい。

「日本人と変わらないよね」

これは本当によく言われてきた。この言葉の裏にあるのは「違いを認めたくない」「同じだと思いたい」という真意である。表面的に同じに見える部分だけに目を向け、あとは言わば寝た子を起こしたくないという発想だろう。

ちなみにひどいバージョンとして「でも普通だよね」と言われたこともある。外国系住民は普通の人間ではないと思っているということなのだろうか。さらにひどいバージョンとしては「気にしないよ」もある。もうこれは、日本人でないことを何かデメリットのように捉えているということがわかる。

私にはこの国でエスニックマイノリティとして、マジョリティが経験しないであろう経験をしている。それは私の考え方や価値観の形成に大きく影響しているからこそ、その違いを「なかったこと」にはしないでほしいし、普通とか普通じゃないとかでジャッジしてほしくないし、ちゃんと気にしてほしい。

しかし私の実感値として、やはり多くの人がこの違いに居心地の悪さを感じているように思う。私が理解を求めて敢えてエスニシティや差別の話をしても、たいていの人は何とも言えない顔をする。そして、「まあまあ」となぜか宥められ、挙げ句「考えすぎ」だとすら言われることもある。問題に蓋をし当事者を黙らせるようなその発言こそがマイクロアグレッションなのだが、当の本人たちはそれに気づいていない。日本社会における「同質性」へのこだわりの強さを日常レベルで実感する瞬間である。

こうしたマイクロアグレッションは人格形成にも影響する。特に若い頃はほかの人と同じでいたいという意識もあり、こうした他人の反応によって人を心から信頼しないようになったり、傷つけられることへの防衛反応が強く出たりすることもあった。人間関係でも演じている部分は多かったように思う。

「差別しない」認識の人が与えるダメージ

先日、ソーシャルメディアでアメリカに住む黒人の女性の投稿を目にした。まとめるとこんな内容である。

「白人の友達に聞きたいんだけど、あんたたちはこれまで私のことを友達だと言っておきながら、私の苦しみについて積極的に聞いてくれたことなんてあった?私と一緒に映った写真を飾ってるのは、『自分には黒人の友達がいる』っていうアピールのためだよね。あんたたちがレイシストじゃないっていうアリバイ作りに利用されるのはもううんざり」

マジョリティの多くはマイノリティが抱える問題に関心がない。それどころかその「問題」を生んでいるのは自分たちの側だということすら気づいていないこともある。そのなかでも一番厄介なのは、この投稿にあるように「自分は差別する人間ではない」という表面的な認識で、実際は何も理解しようとしない人たちである。

こういう人たちは実際に驚くほど多い。そして、とても無邪気に人を傷つける言動をする。ジェンダーの問題に置き換えるともっとわかりやすいだろうか。「自分は女性差別などしない」という認識の男性が、職場のゴミ捨てを女性に任せ続けていたり、「クライアントが喜ぶから女性に発表して欲しい」などと女性を接待役のように扱うことはよく聞く話である。

こうした悪意はあからさまでないから受け流しがちだ。特に日本だとそうだろう。本当は傷ついているのに、それを表明したり抗議したりできないから、じわじわとダメージが蓄積していく。そして気がつけばその傷は、とても深く大きなものになっている。

直視しないから繰り返される

私自身も含めて、人は誰しも差別的な考えを持ったり偏見を持つことがある。私も以前自分のなかの「ロボット=男性」という無意識の偏見を指摘されて恥ずかしい思いをしたことがある。

だからこそ、私たちは積極的に知り、理解し、学び続けなければならない。しかし、日本ではその問題を直視することさえためらう風潮が個人レベルであると実感する。そして、それを直視することを避けていてはいつの間にか頭からそんな問題は抜け落ちてしまう。こうして「差別はしない」人たちによるマイクロアグレッションは繰り返される。

自分の周りの人が抱える苦しみや問題に目を向け理解することは、シンプルにその人間関係を豊かにする。逆に言えば、それがない人間関係はとても表面的で薄っぺらい。そういう意味で個人が深く豊かな人間関係を追求していけばこれらの問題は多少解決するのではないかと思うのだが、それはあまりにも理想論だろうか。

(Image by Alexandr Ivanov from Pixabay )


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