②律令国家の形成2-1
2.律令国家の成立
大化の改新
618年、中国では隋が滅び、唐が興った。唐は、北朝から隋の時代にかけて発展してきた均田制・租調庸制を中心に、律令法に基づく中央集権的な国家体制の充実を図り、7世紀後半には貞観の治と呼ばれる国力の盛んな時代に入っていた。
唐の発展は、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の3国にも大きな影響を及ぼし、相次いで政変が起こった。3国はそれぞれ中央集権化を目指すとともに、朝鮮半島の政治の主導権を握ろうとし、互いに争った。
645年、唐が高句麗への攻撃を始めると、緊張は更に高まった。
日本では、馬子の後、蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には、蝦夷の子入鹿が自らの手に権力を集中しようとし、有力な皇位継承者の1人であった山背大兄王を襲って自殺させた(643年)。このような中で、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられると❶、皇族や中央の豪族の間には、豪族がそれぞれに私地・私民を支配して朝廷の職務を世襲するというこれまでの体制を改め、唐にならった官僚制的な中央集権国家体制を打ち立てようとする動きが高まった。
❶630年、舒明天皇の時に犬上御田鍬が最初の遣唐使として派遣され、632年に帰国した。この時、先に遣隋使に従って中国に渡っていた学問僧の旻が帰国し、また留学生の高向玄理と学問僧の南淵請安は640年に帰国した。
654年、中臣鎌足(のち藤原鎌足)は、中大兄皇子と図り、蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子を滅ぼした。中大兄皇子は新たに即位した孝徳天皇の元で皇太子となり、新しい政府を作って国政の改革に乗り出した。新政府では、中央豪族の有力者を左大臣・右大臣にするとともに、中臣鎌足が内臣、唐から帰国した僧旻・高向玄理が政治顧問としての国博士となり、中大兄皇子を助けて政策の立案に当たった。この年、中国に倣って初めて年号をたてて大化とし、都を難波に移した。
新政府は、翌646(大化2)年正月、4カ条からなる改新の詔(難波長柄豊碕宮)を発した。それは、①豪族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて国家の所有とし(公地公民制)、豪族には代わりに食封などを支給する❶、②地方の行政区画を定め、中央集権的な政治の体制を作る、③戸籍・計帳を作り、班田収授法を行う、④新しい統一的な税制を施行するというもので、新しい中央集権国家のあり方を示している❷。
政府はこの後、世襲職の品部を廃止し、新しい官職や位階の制度を定めるなどの改革を進めた。孝徳天皇の時に行われたこれら一連の改革を大化の改新といい、この後7世紀の末にかけて、唐を模範とした律令による中央集権国家の体制が次第に形成されていった。
律令国家の形成
孝徳天皇の末年、中大兄皇子は難波をさって飛鳥に移った。この頃朝鮮半島では新羅が統一に乗り出し、660年、唐と協力してまず百済を滅ぼした。百済ではその後も豪族が兵を集めて唐や新羅の軍に抵抗し、日本に救援を求めた。重祚した斉明天皇はこれに応じたが、朝鮮半島に渡った日本軍は、663年、白村江の戦いで唐軍に敗れ、朝鮮から退いた。新羅はその後、唐と連合して高句麗をも滅ぼし、676年には唐の勢力を追い出して、朝鮮半島の統一を完成した。
白村江敗戦後、中大兄皇子は新羅や唐の動きに対処して国防の強化を図るとともに❸、内政に力を注いだ。皇子は667年、都を近江(大津宮)に移し、翌年には即位して天智天皇となった。天皇は最初の令である近江令を定めたと言われ、また670年には全国にわたる最初の戸籍である庚午年籍❹を作り、革新政治の推進につとめた。
大化の改新以来、30年近くも政治に当たっていた天智天皇が死去すると、翌672年、天智天皇の弟大海人皇子は、天皇の子大友皇子を擁する勢力と対立して吉野で兵を上げ、美濃に移って、ここを本拠地として東国から兵を集め、大和地方の豪族の協力をえて近江の大友皇子の朝廷を倒した(壬申の乱)。
この乱の後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。壬申の乱によって強大な権力を握った天武天皇は、その権力を背景に豪族を重く用いて天皇中心の政治を行い、中央集権国家建築の事業を強力に推し進めた❺。
天皇は官吏の位階や昇進の制度を定めて、旧来の豪族を政府の官吏として組織し、八色の姓❻を定めて、豪族を天皇中心の新しい身分秩序に編成した。
天武天皇のあとは、皇后であった持統天皇がその事業を引き継ぎ、中央・地方にわたる統治機構を整え、飛鳥浄御原令を施行するなどして❾、律令体制の整備に努めた。
天皇は、また、国家運営の中心として、中国都城に倣った広大な藤原京を、飛鳥の北方の地に営んだ。こうして、天武・持統両天皇の時代に❶❶、大化の改新以来の中央集権国家建設の事業は、ようやく完成に近づいた。
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