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あえて宗教について考えることが必要

以前、https://note.com/yunai/n/nb2909f1e1405で触れたように、脳と宗教に関係があるということから、人が宗教に容易に感化されやすく、大勢の信者がいるということになる。しかしながら、現状の日本では宗教によっておこされる社会的事件も多いのが現実であっても、なるべくそれに触れないようにしている傾向がある。少なくとも安部元首相の暗殺事件が起こるまではその論調だった。

歴史的に宗教は社会に多大な影響を与えてきている

事件が起きるかどうかではなく、人間の心理的な不安定さに対して、あたかも救いの手を差し伸べているような宗教の教えが多い。それが社会的問題・経済問題に対する問題意識までに及び政治や経済まで侵食してしまうのは容易に想像できる。それを逆手にとってマインドコントロール状態を悪用して支配を拡げるというのが常套手段である。それが国家レベルに達している場合さえあり、戦争における人間の操縦手段にもなってきた。そうでなくても、信心のある者=人格者、という前提がそれらの国家・社会で成立さえしている。その意味で宗教は精神的麻薬と言って良いだろう。

衆愚政治の一面

この1週間ばかりで旧統一教会と政治とのつながりが盛んに報じられているが、以前のオウム真理教の選挙出馬だとかも記憶に新しく、カルト集団がその支配目的のために政治を利用しているのは事実である。公明党の支援母体が創価学会であるというのもその面が強い。だが、これは宗教を利用した民主主義への挑戦であり、それを受け入れることはすなわち衆愚政治そのものである。その数の多さや信者の信念の強さから容易な政治手段として魅力的であるのかもしれないが、歴史が示す政教分離という教訓を軽んずるもの以外の何物でもない。

身近な信者にどう対応するか

これだけ宗教に侵食されているために、身近な人に信者がいるというのも常態化している。あるいは自身が信者だという方ももちろんである。しかしながら、人間関係において宗教をどのように対応すべきかというのは極めてデリケートな問題である。多くの信者のいる中で、それを拒み続けることさえ罪悪のような雰囲気に包まれてしまうこともある。筆者の知る人でも一定数の人がなんらかの宗教の信者である。中には教祖となっている人さえいるが、その傾向はまったく明らかなものがある。つまり、「教える側」と「教えられる側」の間にある経典もしくはその内容を示す「教え」が極めて心地良いものであり、心酔してしまうということである。だから、「教えられる側」の善意でこれを広めようとするからこそ宗教は存続していくことになる。

できるだけ冷静に話すしか方法はない

善意で宗教を広めようとしている人に、対話の上でいくら敵対しても分が悪いという状態になるのは、もとからそのように計画された「教え」になっているからである。それをわかっていて話すとすれば、あくまで現実的に冷静に話すしか方法はない。つまり目を覚ますように、心酔から覚めさせるように仕向ける、ということになる。私はよく家族のことを話題にして考え直すように話している。それは、たいていの人は家族と宗教と天秤にかけるならば、かなり迷うことも多いからである。現に、今回の事件も家族(二世)が起こした事件であり、それほどに深刻な状況となることを考えさせるしかない。しかし、それでも「もう戻れない」という状況に追いやられている場合に、なかなか説得することも困難である。

信者の感覚

信者からしてみると「どうして世の中の人はみなこの宗教を信じないのだろう。知らないだけなのだろうな。」とある種の優越感さえ持つようである。あるいは敵対的な言動に対しては「これは明らかに悪である」と感じるであろうことは容易に想像できる。だが、信仰の名のもとに支配を拡げようとすること自体が悪だということに結びつかない。つまり「教える側」には絶対的に心理支配を受けているから、それを批判することは悪ということになる。

まずは社会制度の見直しから

宗教法人の法人税は無償になっており、他の組織より金銭の扱いがかなりルーズである。そのために、私腹を肥やしやすい=支配欲を満足する、構造となるから、これは即刻有償化すべきである。あるいは、社会的に問題を発生させた団体に対してはあきらかに宗教の名を借りた支配目的集団とレッテルを張って警戒・取り締まるくらいにすべきである。

もちろん文化の歴史としては理解すべきだがそれ以上に宗教の本質について少なくとも信者が理解すべき

芸術・文化・技術・科学が宗教によって発展してきた歴史は疑いようがない。だが、何かのタイミングでこれに決別しなければならないというのも歴史が示しているわけであり、全体としての宗教を理解すべきである。例えが良いかどうかわからないが、麻薬中毒患者の更生において、もはや脳を元に戻すことができない限り、理性で判断できるように誘導する、というように、あらためて信者に対して宗教についてちゃんと理解できるようにすることが重要である。信仰内容ではなく、社会的効果や人間の宗教に対する特性というものを客観的に理解する必要がある。

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