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脳と宗教

(4年前にFBのノートに投稿したものです。FBのノートが使えなくなってしまったのでここに再掲します。)


人間の脳の構造が宗教に関係しているといういくつかの報告が見受けられる。Wikipediaに及んでは、宗教自体も脳に受け入れられやすいように進化したという記述がある。信仰心を持つことがあたかも人格者の前提条件であったり、そもそも社会の構成員としての前提条件であったり、はたまた家族の引き継がれている精神である場合も少なくない。さらに、反面それは政教一致による支配要因となる場合があることを歴史的あるいは現在進行形で示している。それは人間として脳の構造と宗教が結合しやすいものとなっている以上、避けられないのだという印象を強く受けてしまう。


しかし、現在の社会問題(特に国際問題)の多くは、多かれ少なかれ宗教の関与が重要であり、多くの対立や暴力・戦争まで長期にわたって原因となっていることも事実であり、一部の国では中世のほとんどの戦争がそのような宗教戦争であったことを学習・反省して、政教分離に至ったことは自然なことである。もちろん、宗教の負の面だけでなく、良い評価をすべき部分も大いにあるであろう。社会の維持には極めて有効な手段であったり、教育や福祉の面で役に立っていることも例を上げるまでもない。ただ、宗教がなければそれらの良い部分は他の方法で実現できなかったというのは、極めて残念と言うほかなく、人間の能力の限界を垣間見るようで寂しいと感じるのは私だけではなかろう。


カルト集団が問題を起こして、その信者のマインドコントロールを解くなどという話題も時には盛んに議論の対象となっている。しかし、宗教一般に強弱はあってもマインドコントロールに近い状況で宗教が存在しているのも事実であろう。結婚の条件として信者どうしでなければならないとか、離脱を認めないとか、行動を制限するのを拒絶できないのは単なる意志の強弱でなく、その社会環境に信仰が強制されているためであるが、それが無意識の社会通念になってしまえば、もう立派なマインドコントロールであろう。それが高じて、過激な解釈に至っては、他の宗教・宗派や無宗教者との軋轢に至るのは、脳と宗教の関係と無縁でないがゆえに避けられないと考えてしまう。


宗教の支配の正統性を主張する場合に、その中に他の宗教・宗派や無宗教者への寛容な部分を作り込むことは極めて困難なことであろう。もっとも、寛容な宗教も存在するのであるから、まんざら不可能なことではないだろうとは思うが、少なくとも支配原理として使われている場合は望みは薄い。しかし一方で、果たして脳の可能性はそこで限定されてしまうとも考えにくい。つまり、マインドコントロールされている人がそこから抜け出せないのは、他の思考に切り替えられないがためであり、もちろん社会的条件の制約はきわめて大きいが、少なくとも自分が支配されている宗教が異なったり無かったりする場合の状況を理解する能力は持っているはずである。そうだとすれば、脳の片隅にでもその理解を助ける場所を作れば、もう少し寛容な宗教観を各個人が持ってもおかしくはないはずである。それはすでに情報の問題であり、いかに他の状況を情報として把握できるようにするかという問題でもある。それは裏返すと、自分を支配している宗教を客観視できるようにすることになり、少なくとも他の宗教・宗派や無宗教者との共存に役立つことになるのではなかろうか?


宗教問題に頭を抱える前に、各自の宗教を棚上げして、客観的にそれらをわかりやすく見せるサイトを存在させることはそれほど障害が多くないであろうと思われ、加えて科学的な知識の理解も同様に見せることができるのであれば、より人類の脳へ良い効果をもたらすというのは私の妄想だけではなかろう。私にそれほどの実行力がないのは、ここまで言っておいて情けないのであるが、しかし、いつかそのようなことを実現する人が現れることを望んでいるということだけでも述べたくて書き込んだ次第である。

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