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死体処理【ホラー短編】

 それは知事選の始まる少し前のことだった。
 あんな事さえなければと何度も思った。
 いままでの人生で一度きりとて、サンライズ・ストリートになんか来たいとも思わなかった。いまだってそうだ。ここは良い噂などひとつとして聞かない、社会の底辺だ。この国の掃きだめだ。そう思っていた自分がここに来る羽目になるなんて。
 国家に仕える公務員として順調にキャリアを積んでいたはずの私は、仕事で大きなミスをし、ほぼ左遷同然で異動を命じられた。住んでいた寮も追い出され、ほとんど一文無しでだ。私はほんの僅かな荷物をトランクに詰めると、おんぼろのバスに乗り込んだ。唯一の救いは、元同僚たちは今度の知事選の結果に気を揉んでいて、私のことなどついぞ気に掛けなかった事だ。そうしてこれから始まるであろう惨めで辛い人生に思いを馳せた。
 やがて目的地に近づくと、窓から見える光景は聞きしに勝る有様だった。停留所でとぼとぼと下りる私を乗客のだれもが嘲笑っているように思えた。
 サンライズ・ストリート。
 サンライズ(夜明け)なんていう名前の癖に、人々の顔に明るさはこれっぽっちも無い。せいぜいその日差しに照らし出されるのは、ゴミと汚物にまみれた汚い町だけだ。アルコール中毒のホームレスが寝転がってうなり声をあげているならまだマシな方で、それはやがてハエのたかった死体となってあちこちに散在することになる。治安は最悪に等しく、いつからかサンライズ・ストリートはこうしたホームレスと犯罪のたまり場になっていた。私の人生はこのゴミ溜めに放り込まれたのだ。
 この町がこうなったのは、二、三十年ほど前に現知事と政府が共同で行った移民政策の失敗からだ。ほんの僅かな同情心と驕りから移民の受け入れを行った結果、条件を満たせない人々が正規の手続きを得ず越境し、一部の区域に溢れたのだ。ここにいる移民はそうした不法滞在者がほとんどで、その一人一人を検挙するのは生半可なことではない。おまけに人々の大半は仕事にもありつくことができず、犯罪に走ることも多かった。サンライズ・ストリートはそうしたあおりを一身に受け、スラム化が進んだ。こうしてただでさえ昼間でも薄暗く治安の悪かった区画は、たちまち移民と家を失った者たちであふれかえった。
 それでもサンライズ・ストリートに集う人々をどうにかすべく、行政とやらは手を打った。住む場所の無い人々に、ささやかな仕事と賃金を供給することに決めたのだ。支援という形で僅かばかりの改善をはかろうとしたのである。私が働くことになるのは、その仕事斡旋事務所だった。
 新たな仕事場である事務所は、ほぼ町の中央で陰鬱に聳えたっていた。灰色のビルは決して越えることのできない巨大な壁のようだった。はたしてこれほどの規模が必要なのかと思うほどだ。大きさに比べて小さな裏口を探し、おもむろに中へ入る。煙草の臭いがむっと強くなった。
「そっちから入らないで」
 どことなく高圧的な声がした。カウンターの中で、スーツを着た中年の白髪の女が、まじまじと私を見た。
「ここは職員専用よ、気軽に入っていい場所じゃないの。ちゃんと十時になってから、入り口の方から回ってちょうだい」
「ええと、待ってください。私はロベルト・ロートシルトといいます。今日からこの事務所で働くことになる……」
「ロベルト? ……ちょっと待ってて」
 女は立ち上がってなにやら書類をいくつか確認していた。その表情は硬いものから少し柔らかくなった気がした。こんなところでホームレスばかり相手にしているとあんな態度にもなるのだろうか。女はやがて書類を持ったまま、私の顔と照らし合わせた。
「失礼。ロベルト・ロートシルトさんね。話は聞いてる、歓迎するわ。あなたの仕事場は西棟の方になるはずだから、案内しましょう」
「あ、ありがとう」
 女は軽く自己紹介を済ませると、奥へ向かった。階段を上がって二階に向かうと、渡り廊下を通って西棟へと赴いた。何故一階が繋がっていないのか不思議に思ったが、戸惑いながらもついていくしかなかった。西棟へと着くとまた階段を下がって一階に下りる。陰鬱な廊下が目の前に現れた。ちゃんと電気がついているのにも関わらず、妙に薄暗く感じる。
 女はあるドアの前で止まった。
「この部屋にアルガー・ブラントっていう男がいるはずよ。それがあなたの同僚で上司。あとはその人に聞けばいいわ」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあね」
 そう言って立ち去る女の目が、妙に同情的に見えたのは気のせいだろうか。こんなところに左遷してきた人間に対する目線なんて、同情か侮蔑のどちらかしかないだろう。私は仕方なくため息をつき、ドアをノックした。
「失礼します」
 そこには廊下とは打って変わって明るい室内が見えた。建物の古くささは拭えないが、廊下よりはマシだった。椅子に座っていたひげ面で太った男が振り向き、憮然とした表情で私を見た。
「おい、だれだ。ここは職員専用だぞ」
 やはり声は高圧的だった。このままではさっきの二の舞になりそうだ。
「ええと、待ってください。今日からここで働くことになった、ロベルト・ロートシルトと申しまして……」
「ロベルト? ……ああ、待て。思い出したぞ。確か今日から一人新人が入るってな。お前さんがそうかい」
 男は私をまじまじと見ると、立ち上がって近寄ってきた。まじまじと私の上から下までを見る。ふうん、と少しだけ鼻で笑ったあと、片手を差し出してきた。
「アルガー・ブラントだ。あんたの同僚で上司になる」
「改めて、ロベルト・ロートシルトです。よろしくお願いします」
「ふん。大層な名前だ」
 アルガーは握手に応じた私の手を強く握りしめた。あまりの力強さに叫ぶ寸前だったが、耐えた。彼は手を離して引き返すと、ぞんざいに「離席中」の札を対面カウンターに置いた。それから部屋の隅にある古くさいアルミ製のキャビネットを開けて、中を漁りながら言った。
「あのう、ところで今日からすぐ来いと言われたんですが……」
「わかってる、わかってる。寮の部屋からなにから最初から教えてやるからよ。あの女、ぜんぶ俺に押しつけていったんだろう」
 アルガーは何かを探しているようだった。
「あんたも災難だったな。こんなところに来ちまうなんてな。なにをやらかしたんだ?」
「それは……」
「いや、別にいいか。ここに来たからにはここの仕事を覚えてもらう。ここの仕事さえできれば何だっていい。そうだろ?」
 そう言って箱のひとつを開けて鍵を取り出すと、振り返って私に差し出した。
「ほらよ、あんたの部屋の鍵だ。寮の部屋は三階になってる」
 私は少しだけホッとした。目の前の男は無愛想で威圧的だが、少なくとも同僚に対するそれなりの扱いは持ち合わせているらしかった。
「……ありがとうございます」
「敬語は要らないぞ。ついてきな」
 私は彼に連れられ、トイレや休憩室、それからロッカーの場所を次々に教えられていった。
「三階が職員寮だ。個人の寝室の他に食堂とシャワー室、トイレ、それから給湯室。冷蔵庫は小さいが一つ兼用のがあるから、入れたいものがあれば入れておけ」
 職員寮は仕事場に比べてやや柔らかい印象があった。といっても、安いホテル程度の装飾だったが、それでも一階に比べればずいぶんとマシだった。割り当てられた部屋の前まで連れてこられると、アルガーは振り返って肩を竦めた。
「あとはおいおい覚えとけばいい。仕事を辞めるんでなきゃな」
「わかった」
「それと、こいつがお前の作業着だ。午後の仕事が始まるまでに、部屋の整理と着替えを済ませておけ。サイズが合わなきゃ俺にクレーム入れてくれ」
 紙袋を渡されると、私は頷いた。とうとうここに来てしまったという実感がどっと出てきた。

 午後になると、アルガーはここでの仕事を一通り教えてくれた。
「斡旋事務所って名前の通り、ここではやってきた家無しどもに仕事を斡旋するのが主な仕事になる。例えば、こんなのだ」
 渡された仕事の一覧を見ると、報酬はほとんど雀の涙ほどだった。それでもなんだかんだいいながら――選り好みしなければ――仕事はあった。
 寮住まいもある道路工事や倉庫作業は、まだ体力がありあまり、不運にも家を失った若者たちに優先的に回されているらしかった。政府主導である以上、ある程度身分がわかっていて、これから立ち直る可能性のある自国民が優先されるのは当然のことだ。
 だが問題は、身分証を持たない移民と、既に若くはない中年以上の、もっといえば高齢の男達だった。彼らにありつける仕事といえば、町の清掃くらいだった。それでも捨てられたゴミが金になるというのなら、暇を持て余したホームレス達がそれとなく小遣い稼ぎに動いていた。例えその小遣いがすべて酒と食べ物に消えるだけだったとしても、無いよりはマシだろう。
「ここでの問題は山積みだが、ひとまずゴミ掃除は奴等がやってくれる。そうすることで景観だけはなんとかしようって寸法だ」
「……あのう、他の方々は?」
 昨日、東棟の方に入ったときは、案内してくれた女や、他にも職員がいたはずだ。
 アルガーはなんともいえない目をした。
「この町にゃあはいま教えたもの以上に、もっと重要な問題がある。なんだと思う?」
「景観以上に、ですか。……ええと、不法滞在者の問題がありますよね。越境移民の……」
「違う。そんなことじゃねぇんだ」
「他にあるんですか?」
「死体の回収だ」
「死体……」
 私は顔を顰めたが、アルガーは表情を変えなかった。その目線はどこか同情的に変わっていた。
「それが、ここでのあんたと俺の仕事だ」
「まさか」
「本当だ、そんな顔するんじゃねぇよ」
 そのときの私はいったいどんな顔をしていたというのだろう。
「ここじゃ毎日のように死体が出る。どこかで誰かが必ず死ぬ。飢餓と貧困に勝てなかった奴等がな。そいつらを放っておくと、ただでさえ汚い町が感染症の温床になっちまう。そこでだ、死体を回収して運ぶ奴等が必要だ」
「そんな……」
「もちろん、死体を見つけてここまで運んでをやってもらうのは家無しの皆さんだ。だが、回収した死体袋を運ぶのは俺達の仕事になる……」
 私は愕然とした。
 ただでさえこんな町に左遷されてきて、死体処理をさせられる事になるなんて思わなかった。
「死体回収の報酬は破格だ」
 見せられた書類によると、確かに他の仕事よりも報酬が桁一つ違った。
 死体を進んで触りたい人なんて、どれほど堕ちてもいないだろう。
「だがどれだけ報酬を貰おうと、やりたくないもんはやりたくない。いくら葬儀みたいなもんだといっても、家族や医者に囲まれて死んだような奴ならともかく、相手は悪臭とゴミにまみれて、骨が出てるような奴もいるからな」
「……」
 生唾を飲み込んだ。リアルに連想してしまって少しだけ気分が悪くなる。
 葬儀をすると言えば聞こえはいい。けれどまともな奴なら、心の底から死体を触りたいなんて思う奴はいない――特に、垢とゴミにまみれたホームレスの死体なんか。アルガーはそう付け加えた。それでもここでは必要な仕事らしい。故に、死体回収の仕事については専門の職員がいる。少し煙たがられながらも死体を運ぶ職員が。私はそんな場所に左遷されてしまったのだ。私がしでかしたミスはそれほど大きなものだっただろうか。あるいはちょうどいいとばかりに追い立てられたのか。おそらくは後者だろうと思う。
 もっともこれは当の請負人たちにとっても同じだった。この仕事のあとはしばらく他人から拒絶されるし、最後の砦のような教会からでさえ嫌な顔をされることもあるという。それでも死体を見つければ、他の仕事よりもずっといい報酬が貰える。ただし検分は行うから、犯罪行為が行われるとなればそれは身の拘束を意味する。
 私が愕然としている間に、アルガーはガサゴソとキャビネットを漁って何枚かの紙切れを出してきた。
「こんな仕事だが、無いと大変なんだ。わかるだろう?」
 目の前に出されたのは契約書だった。長い長い、だれも読むことを想定していないと思われる規定の書かれた契約書。それが何枚もあった。
「ここで守らなきゃいけないのはたったひとつ。『何があっても口外無用』だ。もしそれが破られるようなことがあれば、けれどもあんたはその代わりに破格の報酬を手に入れられるし、断ればクビだ。いまならまだ引き返せる」
 思えばこのとき、引き返せば良かったのだ。
 私はため息をついて何枚もの契約書と誓、誓約書にもサインした。この後起きることに思いを馳せることもなく。

 翌日になると、さっそく荷物が運ばれてきた。
 まず最初にやってきたのは、ぶかぶかのジャケットを羽織って帽子をかぶったまだ若い黒い肌の男だった。器用に梱包された遺体袋を手早く運び込んで荷車の上に乗せる。金を貰うとホッとした表情で手をあげて去っていった。意外に普通の人間が運んできた事に安堵する。金が必要だからとこういう仕事に手を出す若者もいるんだろう。
 だが、次にやってきたのは陰鬱な男で、顔は髭だらけ、髪はボサボサでお互いに絡まり合い、見た限り白人ではあるのに、汚れた肌はもはや人種がどうこう言えるレベルではなかった。妙に真新しいくせにあちこち汚れたスーツの上にジャケットを重ね着し、すり切れた女物のマフラーを巻いていた。彼はヤニで染まった黄色いガタガタした歯を見せつけてニヤニヤ笑い、乱暴に荷物をその場に置くと、黒い爪で金の袋をひったくって行った。
 あまりの違いに衝撃を受けた。だが何にせよここは住む世界が違いすぎる。真正面から殴られたような気分になった。
 運ばれてきた荷物は四つになった。木製の荷車の上には、ちょうど人の大きさの袋が四つ。袋の下から盛り上がっているものの中身を想像すると、なんともいえない気分になる。
「こいつを車に積んで運ぶんだ」
 アルガーの指示で、荷車ごと荷物を小型トラックの後ろに乗せると、運転席に乗り込んで出発した。
「道を覚えとけよ」
「はい」
 地図やスマホを見ても良かったが、実際の道を見た方が覚えがいい。私はトラックの窓から見える道に目を走らせた。風景は次第に町から少し離れた郊外の場所へと移り変わり、広い墓地へとたどり着いた。
「共同墓地ですか?」
「まあな」
 だが見たところ、墓は古そうなものばかりだった。長いあいだ、だれも墓参りに来ているような気配がない。そのくせ、中央に突っ立っている地下墓地の入り口の建物だけは綺麗に清掃されていた。妙な違和感があったが、うまく言い表せない。
「それじゃ、墓穴は……」
「いや、……死体は埋めるわけじゃない」
「でも葬儀のようなものだと……、もしかして、火葬ということですか?」
「少なくとも土葬じゃない」
 火葬があることは知っていた。でもそれはよその国の文化としてだ。私はそれほど熱心なキリスト教徒ではないと思っているが、遺体を焼くことには抵抗はあった。戻ってこれないとまでは言わないが、自分の常識の外にあるような気がするのだ。それでも、この死体の出所を――生前の状況を鑑みると、仕方のないことなのか。だからこそ、この仕事は報酬が高いのか。
「こっちだ」
 トラックの中から荷車ごと遺体を下ろす。痩せ衰えた死体ばかりとはいえ、これを運ぶのはずいぶんと骨が折れた。アルガーは中央にそびえる地下墓地の入り口まで行くと、妙に厳重な鍵を外して扉を開けた。アルガーが早く来いとばかりに手招く。階段から下ろすのかと少しげんなりしたが、中に入ると意外な事にエレベーターになっていた。こんなもの見たことなかった。それこそ近代的でさえあるシステムに面食らっていると、エレベーターが地下に向かって動き出した。
 戸惑いながらエレベーターが移動するのを待つ。
 地下二階までたどり着くと、中は通路になっていた。灰色の通路が左右に続き、灯りもついている。ごうごうとどこからともなく音がしている。エレベーター入り口からまっすぐ進んだところに、老人が一人いた。
「今日の死体は四つだ」
 アルガーが老人に話しかけた。老人は頷き、書類を取り出してなにごとか書き付けると、右側の通路を指示した。これではまるで実験施設だ。私はなにか、とんでもない所にきたのではないか。私が呆然としていると、アルガーが何かを差し出してきた。渡されたのはガスマスクか防塵マスクのようなごついマスクだった。
「……」
 私はアルガーを見返したが、彼は何も言わぬまま私にマスクを押しつけた。
 正直に言えば、いったい何が起きているのかわからなかった。私は促されるままにマスクをするしかなかった。
「……火葬、なんですよね?」
 そうだと頷いてほしかった。アルガーは、黙ったまま廊下を歩き続けた。
 その先には妙に厳重な扉があり、それをくぐると、銀行の金庫もかくやという円形の扉があった。天井にはいくつも監視カメラがついている。いくらなんでもこんな火葬場があるものか。しかし、いま入ってきた扉は閉められ、私は――私たちはもはや逃れられないところに来てしまった。心臓が高鳴る。これから炉に入れて燃やすのだと言ってほしかった。ガチャンと音がして、ひとりでに巨大な扉の鍵が開いていく。とたんに、生臭いにおいが辺りにたちこめた。
「……うっ……!?」
 マスクをしてなおほんのわずかに入ってくる臭いに、思わず顔を顰める。
 アルガーは死体のひとつを引きずりだして、私を見た。
「そっちを持て」
 それでも私はほんの僅かな好奇心にかられ、死体の片側を持ち、薄暗い光に照らされた扉の向こうを見た。私はまだ、かつての気質を捨てられていなかった。母国から逃げ、政府からも見捨てられ、見知らぬ土地で飢餓と貧困に苦しんで死んだ哀れで不様な死体がどうなるのか見たかった。
 そして、とうとう目の前にそれは現れた。
 薄暗い光に照らされた穴にあるのは、煉獄のごとき熱波でも業火でもなかった。その代わりに、地獄よりもなお暗い底から這い出てきたような巨大な肉塊がそこにあった。やや紫がかった灰色の体表にはそれよりも濃い紫色の線が幾つもついていて、手足は無かった。ぶよぶよとした脂肪だけでできたような体は、大きく膨らんでは縮んでを繰り返している。膨らんで隆起するのにあわせて、巨大な口のような真っ暗な空間が開いては閉じていた。動くたびに皺になった肉が引き延ばされ、閉じると再び皺ができるのを繰り返す。何度も見える口の中には牙も歯も見当たらず、それがいっそう不気味に思えた。目はほとんど退化しているか元々存在しないようで、ただ口らしき場所の上に、六つの小さな穴が見えるばかりだった。体表はぬめぬめとした液体が覆っていて、口さえ開かなければ、出来損ないのナメクジのようにも見えた。
 異様なのは、それが人を飲み込めそうなほどに巨大であるということだ。
「あんまり見るな」
 アルガーが眉間に皺を寄せながら言った。
 それでも私は身動きひとつできなかった。アルガーはため息をつくと、私の手から死体を下ろさせ、一気に抱え上げて化け物めがけて投げ込んだ。
 人が。
 人であったものが。
 あっけなく空中に放り出される。
 死体は何度も口を開けるそいつめがけて落ちていった。巨大な奈落の底に吸い込まれていくと、ばくんと口が閉じられ、それまで呼吸のように繰り返されていた開閉が止まった。もごもごと肉塊が波打ち、咀嚼でもするように鳴動する。中から小さな音がする。
 強烈な吐き気がした。胃の中から激しくこみ上げてくる。よろよろと離れて壁に手をついただけマシだろう。それでも止めることができず、私は防塵マスクを剥ぎ取り、片隅で胃の中のものを吐き出した。途端に、いままでよりも強い臭気が鼻の中へと飛び込んできた。あまりの臭いに、吐き気は止まらなかった。アルガーが近寄ってきたとき、私もあの穴へ投げ入れられるのではないかと思った。
「ひ……」
 だがアルガーは、急いで私の鼻と口を防塵マスクで覆うと、頭の後ろでしっかりと留めた。
 口の中に酸っぱい味が広がり、涙目のまま彼を見る。
「マスクだけはしとけ。せめてこの臭気はマシになる」
 腰が抜けた私を無視して、アルガーが苦労しながら死体を投げ込む声がした。
 なんだ。なんだあれは。いったい私はなんの悪夢を見ているんだ。私は……。
「外すなっ」
 朦朧としながら、またマスクを外そうとしていたらしい。私は発作のように時折びくりと震える体をどうすることもできなかった。
 そこからどうやって戻ってきたのか覚えていない。引きずられながら、いつの間にかトラックで事務所まで戻ってきたのは覚えている。部屋に戻ってからも吐き気は止まらず、あれが夢だったのではないかと思えるまでずいぶんと時間が掛かった。
 アルガーは部屋にやってくると、吐き止めの薬と胃薬を置いていった。
「……アルガー、あれは……」
「俺も知らない。だけど、死体を食わせることでなんとかあそこに留めているらしい」
「死体を……」
「たとえ死体でも、腹が一杯になれば大人しくしててくれるからな」
「そうじゃなければ……?」
 アルガーは何も言わずに首を振った。
 あいつはいずれ地上へ出てくるのだろうか。そのとき、いったいなにが起きるのだろうか。
「三十年くらい前の、移民政策の失敗があるだろ。あれは、失敗なんかじゃなかったんだ」
 その声は、どこかやりきれない色を含んでいた。

 それからしばらくすると、テレビでは知事選に向けた最後の舌戦が始まっていた。
『サンライズ・ストリートでは、いまもたくさんの方々が貧困に苦しんでいます。そのなかには移民、避難移民、そしてなにより自国の民がいます。サンライズ・ストリートに光を。夜明けを取り戻しましょう!』
 にこやかに笑う中年の白髪女が腕を振り上げていた。
 現職の知事と、スラムに問題を絞った女の一騎打ち。
 現知事は既に老齢で、時代に見合わないと言われていた。対して女は順調に、何も知らない奴等の指示を集めていた。何も知らないままの人々が、サンライズ・ストリートを貧困と移民から解放するべく握りこぶしを挙げている。愚民どもが。だったらあの化け物を引き取ってもらいたいものだ。自分達で死体を用意できるというのか。あの化け物が微睡みから目覚めて動き出したとき、どうなるのか。空腹のまま外に出て、死体だけを片付けてくれるとは限らない。そのときはきっと……。
 あの女が引き継いで、正気を保ったままでいられるならいいんだが。


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