他者に依存した幸せ?

いつの間にか、生きることは働くことになっていた。月曜から金曜までの決まった時間+αを、社会を動かす、ほんの小さな一つの歯車として働いている。そうして過ごしている中で、ふと、何のために生きているんだろう、と思うことが結構ある。もちろん、食べていくためには働かなくちゃいけない。大人になるということは、働くことと同義で、それは同時に義務でもある。それは、しだいに当たり前の行為と化して、何も言わずに頑張るのが普通のことになる。どんなに頑張ったり何かを成し遂げたりしたって、「すごいね」、「偉いね」って褒めてくれる人もいない。本当は、自分の人生や生き方を誰かに見てほしいし、少しくらい自慢したいのにそうできる人がいない。私には繋がれる他者、いわゆる友人と呼べる人がいない。今までできなかったわけではないけれど、いつの間にか、中学の時に一番仲良かった子とも、大学時代何でも話せた友人とも、連絡を取らなくなっていた。様々な要因で取れなくなった、といったほうが正しいのかもしれない。

自分のやりたかったこと+社会的に見ても華形と言われる仕事ができているのはもちろん幸せなことだと思うのだけれど、それじゃ満足できなくて、その職に就いている私を誰かに羨ましいって思われたい。そういう生き方は虚しいかもしれないけど、それが私にとっての現実で、どうしようもない。他者からの体裁のためという理由は、私にとっては頑張り続けることのできる大きな原動力になると思う。

自分で自分を満たさないと、一生他者が、とか言って過ごすことになる。自分で満足できないと。今の人生の満足度は高めかもしれないけれど、手に入らないもの=他者からの羨望だったり承認を求めては、物足りなくて、それが欲しくて嘆いている。それでも、このことに早めに気づけてよかったはよかったと思う。危うく、一生「他者」依存の生き方をするところだった。とはいいつつ、気づいたとてその生き方ができるかどうかは、また別問題かもしれない。ただ、「他者」依存の生き方の危険性は私だけじゃなくて潜在的に他の人も孕んでいると思う。時代的に、幸せが他者に左右されるみたいな、そういう風潮があるような気がする。

「他者」依存、他者軸=他人と比べたり、私みたいな、他者に誇るために生きてるような生き方で幸せを追い求めてたら、いつまで経っても幸せにはなれないと思う。わかっているけど、それができたら苦労しない。

たとえ結婚したとしても、自分の中だけで「幸せ」な状態でいることに対しての満足は多分できなくて、他者から見て「幸せそうな私」、「羨ましいと思われる私」じゃないと、私は満ち足りないと思う。だから、誇れるというか自慢できる誰かがいないのに結婚しても、と思ってしまう。好きな人とかできたら、そんなことも思わなくなるのだろうか。

他者軸で生きていたら、いつまで経っても幸せになんかなれない。本当なら、自分が自分で幸せだと思えればそれでいいはずなのに。要するに、承認欲求が欲しいんだと思う。繋がれる人がほしい。人恋しい。深く人と関わりたい。そんな中でも、最近、人との小さな繋がりが幸せなんだと思うようになったりして、職場とか、美容室で出会う人たちとかとの縁を大事にして、そういうのを積み重ねていけたら素敵だと思う。繋がれる他者=友人がいない分、そういう身近な出会いを心に抱いて割れ物みたいに扱って、目の前にある幸せを抱き締めて生きていこうと思う今日この頃で、そう思ったら、心があたたかくなってきて、私ひとりでも幸せになれるんじゃないかと思えてきた。

#創作大賞2023 #エッセイ部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?