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ホールデン・コールフィールドという男


少年・少女の青春のバイブル本である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を初めて手にして読んでみた。

できればもっと早く、10代に出会いたかったけれど、30近くになる自分が読んでも共感する部分が多く、何度も読み返したい本の1つになった。

そして読んだ後には、少しだけ理屈っぽく、さらに口が悪くなった。誰かのドタバタ歩く足音に対して、「ガッデム・ステューピッド・フットステップス」と言いたくなる。語り手である16才のホールデン・コールフィールドという男のひねくれた話口調が体内に浸透してしまったのだ。それくらい、彼の話にはのめり込んで聞いてしまった。

彼という人間は、とにかく社会の欺瞞「インチキ(phonies)」が大嫌いな、真っ直ぐなピュア・ボーイといった印象を与えた。彼はユーモアたっぷりで、国語は誰にも負けないくらい得意だけど、とにかく世の中のほとんどすべてが嫌いで、つまり彼からしたら殆ど「インチキ」にみえて、それに片っ端から毒を吐いてしまうような反逆児だ。

  • シャワーカーテンに対しても「ろくでもない」(goddem  shower curtains)

  • バーでの拍手には「インチキな拍手」
    (phonies applauding)

  • 勿論、バーテンダーも「最悪」(louse)

  • 誰かとの別れ際の「グッド・ラック!(幸運を祈るよ!)」なんかには「気が滅入る」(It sounds terrible)


『若きホールデンの悪口特集』なんていう記事を書いたっていいくらい、全ページに文句・悪口が散りばめられている。

でも自分もそんなふうに感じたことはある、今でもあるよ、という風に、常に聞きながら思うことは多く、きっとこの「ライ麦」を愛する人々も同じように、

「goddem!」

っていいたくなるくらい、ヘンテコな世の中にうんざりしちゃったことがあったんだろうと思う。彼はアメリカに居るけど、そういう感性はきっと世界中の多くの人が親近感を覚えたのだろうし、共感して心を分かち合ったのだろう。読者達はこの「ライ麦」には、ホールデン的に言えば、「かなりまいっちまった(That's  killed  me)」んだろうと思う。


さらに言えば、ホールデンという男は、フェンシングの試合のときに向かう地下鉄で、用具一式を置き忘れてしまったり、よく階段ですっ転んで首の骨を折りそうになったり、詐欺にあってお金奪い取られたり、いわゆるろくでなしのポンコツときてる。金遣いも荒いし、未成年でお酒を飲むし、女の子には弱いし、どうみても「イケてる主人公」ではないところもまた、近くに寄っていって話を聞きたくなってしまう理由のひとつにあるのかもしれない。

そんなふうにホールデンには、もし自分が彼の父親だったとしたら、「このドラ息子!」とひっぱたいてしまいそうなところもあるのだけど、それでもやっぱり共感するところがあるのは、その文句たれのドラ息子は自分の中に未だにどこかで生きてるからだろう。

私自身、もうとうの昔に青春時代なんてものは去ってしまったはずだけれど、今でもこの文句たれのドラ息子が顔を出すことが少なからずある。どうしても、成熟しきれない部分が未だに残っている。

『未熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。』

24章p319

これはホールデンがアントリーニ先生の家でうける助言の一つだ。その助言は当然私自身も受けるべきもので、この世の濁ったものを受け入れがたくなったとき、このアントリーニ先生の言葉を思い出すようにするのだが、それでもどうしても、美しい世界を求めずにいられなくなるときがある。「卑しく生きる」というのが物凄く困難に感じられることがあるのだ。

しかしそういう未成熟な人間というのは、知らぬ間に、大抵どこかの崖のふちから落っこちてしまうものだ。(現に私自身、崖の縁で落ちるか落ちないかのところを歩いているような気がする)

『でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮べちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっと “キャッチ” するんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。』

22章p293

16歳のホールデンは、ライ麦畑の崖から落ちそうな子供たちの捕まえ役になりたかった。しかし結局、捕まえ役になりたかった彼は、捕まえてもらう側の人間だったわけだ。助けられるべき人間こそが誰かを助けたくなるというのは、世の常のことだと思うが、例に漏れずやはり彼もそうだったのだ。

しかし、誰かを危険から拾い上げて安全な道へ案内することなど到底向いてそうにも思えない、毒舌反逆児なホールデンだが、それでも彼のこの打ち明け話は、どこかの崖から落ちそうな誰かを、捕まえることができたのではないだろうか?

少なくとも彼は彼のように崖の縁で落ちてしまいそうな人間たちを見つけ出し、あるいは落ちてしまいそうな人間たちが彼をみつけ出し、共に崖の底をみつめ、ライ麦畑を見渡し、その手を握って隣に立って居てくれたように思う。

成熟できないホールデンは、成熟しきれない多くの少年少女、さらに大人たちにとっての、彼らのお守りになってくれたのではないだろうか。
どこか見えないところにしまい込まれてしまった未熟な私たちの存在を、「なかったこと」にしないでいてくれたのではないだろうか。

いつかはこのホールデンとの時間が、大切な、過去の懐かしい思い出になっていくことだろうと思う。
そして、そのときの自分は一体彼に、今の自分に、何と語りかけるのだろうか?

冬に池が凍ったとき、セントラルパークの家鴨はどこへ行ったとしても、どこか暖かくて過ごしやすい場所へ行ったとしても、動物園に保護されたとしても、凍え死ぬことなく家鴨は家鴨として生きていているんだよ。そんな風に言えるのだろうか。



☆読み終えて、村上春樹翻訳の訳者解説が掲載されていなかったところが気になった。サリンジャーとしてはそんな俗人(big snob)の好みそうなもの願い下げということかしら?

それについて調べてみると、
どうやら「翻訳夜話2 サリンジャー戦記(村上春樹, 柴田元幸) 」という本で、このキャッチャー・イン・ザ・ライが語り尽くされているらしい。
こちらも是非読んでみたい!(big snob)


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