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ともす横丁Vol.18 母の口座名義

父の遺産整理のため母と銀行に出向いたときのことだ。母が自分の口座名義が違うと言い出した。母の名前の一文字が旧字でなく新字になっているという。今さら何を言い出すんだろうと訝しく思った。

今のままでも送金するのに問題ない。今までよくてなんで今なの?と聞くと母は「お父さんがそれで(新字)いいと言ったからそうしたの。親からもらった名前だからその字を使いたい。」とうつむき加減に言う。父に主張できなかった母がそこにいた。

銀行の窓口の女性は、通帳の新字で書かれた名前に丁寧に抹消線を引き、戸籍上の旧字の名前に手際よく書き換えた。母の満足そうな表情。まるで自分を取り戻したかのようだ。

ずっと言えずにいたのだろう。ほんの小さなことに見えても、母にとっては自分をもぎ取られたように感じていたに違いない。父の気を損ねることのないよう慮っていたのだろう。なんということだ。

自分を取り戻す作業は、痛みを伴う。言えなかった自分を情けなく無力に感じたり、父を悪者にするような罪悪感もあるかもしれない。それでも、嫌なことは嫌だと感じることを自分に許し、受け入れていたことを自らの意志で選択し直していく。母は言葉にするごとに気づき、意識して選択していく。

父がいなくなって寂しいと哀しみに暮れる妻を自分に求めていたかもしれない。自分に湧く感情を認めるのが怖かったのかもしれない。どう生きていったらいいかわからない不安や寂しさで時に感情に翻弄されつつも、慮ることのないひとりの気楽さ、自分で選択できる、自分のために時間とお金を使える喜びを次第に感じ始めているようだ。「残された時間はプレゼントだと思う。」と言うようになった。

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