排他的な勝利を求めることへの忌避感と負けず嫌い

負けず嫌いから悪意へ

「負けず嫌い」って変な言葉だな、と子供の頃から思っていました。「食わず嫌い」は食べてもないのに、のニュアンスがあるのに対して、「負けず嫌い」は負けることを単純に嫌っているだけなので、似た様な表現がある割には揃ってないというのがどうにも気持ちが悪かったです。実際には「負け嫌い」とか「負けじ魂」とかっていう言葉が先行していて、語感の良さなのかそれこそ「食わず嫌い」との類似もあってか、いつの間にか「負けず嫌い」が広く使われるようになった、ということらしいですね。

子供の頃と言えば、これは自分の子供時代ではなく息子がまだ幼稚園に通っていた頃の話なのですが、この子には性格的にも自分と通じるところがあるのかもしれない、と最初に感じた出来事も「負けず嫌い」にまつわるものでした。参観日の様なイベントで幼稚園での様子を見せてもらった際、子供達はレクリエーションの時間に変形的な椅子取りゲームというか山手線ゲームのようなものをすることになりました。ぬいぐるみを爆弾に見立てて、テーマにあった言葉を言ったら次の子にそのぬいぐるみを渡す。いつその爆弾が爆発するかわからないので、急いでそれを次の子に渡さなければならない。音楽が止まった瞬間にそのぬいぐるみを持っていた子が負け。というようなルールだったと思います。うちの子は、このゲームを非常に嫌がりました。他にもこういう緊張感があるゲームが嫌な子はいたのではないかと思いますが、うちの子は特に大げさに怖がっていました。自分の所で爆発する気しかしなくて怖いのだろうな、ということがよくわかり、強い共感と若干の嗜虐心を感じたことをよく覚えています。

自分も子供の頃はどんなゲームをやっても自分が負けるシナリオばかりたくさん思い付いてしまい、勝手に心拍数を高めている様な子でした。相手の立ち場で、本来なら相手からは見えない自分の手札や意図などの情報を付加した上で最適手を探索してしまい、どんどん絶望感を深めていってしまい、ゲーム自体を投げ出したくなる、というパターンを繰り返していました。早生まれでまわりの子との競争が不利だったということもあってか、負けることに慣れるか勝負を避けるか、という方向に気持ちが進んでいったような気もします。時代的にも、負けず嫌いでがむしゃらに頑張る、という姿勢に対する冷笑的なムードなんかもあったかもしれません。(それはさすがに大げさかもしれないですけど)

そういう経緯もあって、あんまり勝負事には熱を上げず、負けても悔しがらない性格に育ちました。厳密に言うと、自分でも本当に悔しくないのかはよくわかっておらず、少なくとも悔しそうにしない所作は身につけていたと思います。(そう言えば、小学校の徒競走で走ることを拒否して、最初から最後まで早歩きで済ませたこともありました。牛歩でないのは迷惑をかけたいわけではなかったからです。幸い、子供達はそんな馬鹿なところまでは似ないで素直に育ってくれましたが)

負けず嫌いにならない様に、見えない様に、ということを続けていると、かえって自分は負けず嫌いなのではないか、という疑念が生じます。素直に勝負事に熱を上げられている方が、精神面でもよっぽど身軽に切換ができるのではという気持ちにもなってきます。そんな負けず嫌い拗らせ勢の私ですが、少し前にこのことに関してちょっと面白い本を読みました。

『悪意の科学』という本です。アリストテレスは悪意を自分が得するためではなく相手が得をしない様に他者の願いの邪魔をすることと、定義しているそうですが、そのような意味での「悪意」を扱った本です。諸刃の剣的な自爆ダメージありの強力攻撃を使いこなすのはゲーマー冥利に尽きるので、基本的には善人に分類されるつもりの私も、この定義においては多少「悪意がある」と見なされても仕方がないかな、くらいの気持ちで読み進めていました。そこで以下の様な記述にぶつかりました。

グループのメンバーと競争するかしないか選べる場合、悪意のある人々のほうが「競争しない」という選択をする傾向が強かったのだ。悪意のある人々のほうが悪意のない人々よりも競争に強いが、競争したいという欲求は弱いらしい。その理由はこの研究における悪意の定義に隠されているようだ同研究では悪意のある人々を「他者より不利になることを嫌い、(誰かが自分よりも多くの損害を被るなら自分もお金を失ってもかまわないほどに)有利になることを好む人」と定義している。

悪意の科学 P104

ゲーム理論でよく出てくる「最後通牒ゲーム」などを使って実験を行った研究によると、悪意がある人は「負けるリスク」を嫌うあまり競争への参加を渋る。しかし、競争的な思考を持っているので実際に参加するとスコアは高い傾向にある、ということの様です。(厳密に言うと、同じタスクでも上位者に報償を与えるなどの競争的な条件を加えたとき、「悪意がある人」はそうでない人よりもパフォーマンスが顕著に向上する傾向がある)

めちゃくちゃ身につまされる話です。

そうか、自分も息子も悪意があるのか…… せめて真の護身ということにならないかな。などと往生際の悪いことをくどくどと考えてしまいました。全然潔くない。

悪意のある自分がストレスを感じる局面

さて上記に紹介された研究などを参考にする限り、またうちの子が他の子よりも明らかに顕著な傾向を示していたことから考えても、私のこの傾向が全人類に共通の平均的なものであるということは、残念ながら無さそうです。比較的、高いレベルの悪意を抱えた人間ということで特徴付けられることになります。そこで、そのような偏りを持つ個人としての内省から、自分は何を嫌がり何を忌避しているのか、という話を続けたいと思います。

これは行動経済学でいうところのプロスペクト理論(損失の痛みの方が獲得の歓びよりも強い)で説明できそうな気がするので、個人の偏りとして提出するのが適当かどうかはわかりませんが、「結局後で負ける」を嫌がるが故に、「勝利」も嬉しくない、特に目立った勝ち方はしたくない、という感情を抱くことがままあります。

勝負事も、単発の試合から、三本勝負、トーナメント、総当たり戦、さらにはペナントレース的なキャンペーンシステムと、いつ勝敗が決するかが状況によって大きく異なります。後者に行くほどメタゲームの要素が強くなり、一回の勝利の価値は下がる傾向があります。序盤に勝ちすぎてしまうと対策されて後から逆転される可能性が高まる、なんていう見方もできます。そして、現実の生活の中に生じている個々の競争を、どういう状況に当てはめて解釈すべきか、というのは自明ではありません。(この種の問題は基本的にロングスパンの方が賢そうに見えるんですが、人生の最後に満足できれば良いだと、「早期に薬でもやって多幸感に包まれた状態で死亡する」を簡単には克服できない、みたいなことは思春期あたりで誰もが考えるあるあるですよね!)

若干脇に道にそれますが、そう言えば小学生の頃、「自分は咄嗟の時にはチョキを出してしまう傾向がある」ということを家族や友人達にそれとなく信じさせることに成功すれば後々有利になるのでは? って考えて色々試してみたものの、いざという時の勝負で結局それを読まれてる可能性がチラついてしまい勝率にもストレス緩和にも役に立たなかった、ということもありました。

とにかく、一時的に得た有利な立場、単発の勝利、などを後で失うことが怖い、という感情から勝負を避け続けることになるわけです。

排他的な勝利という名の最悪

2024年6月の現在、東京都知事選挙の話題が(概ねあまり良い意味ではなく)盛り上がっています。そこで繰り返し蒸し返されているのが「2位じゃだめなんですか?」発言です。あの発言自体は別に悪い質問ではなかったのではないか、と個人的には思いますが、それはさておき、1位を争っている場合、1位でなくなれば敗北です。誰か他の人が1位になれば自分は負けですし、自分が1位になって勝てた時(勝てている時)は他の人は皆負けています。順位を争うのではなく特定の事物を争う場合(領土でも、チャンピオンベルトでも)も同じです、誰かがそれを勝ち取った時、他の誰かはそれを得ることができない。勝負が一回で済まない場合は一時的に勝ち取ることはできても、いずれそれは奪われるものと考えられます。そういう性格の勝利をここでは「排他的な勝利」としたいと思います。

排他的な勝利が最終的なものでない場合(そして、捉え方にはよるものの実社会に最終的な決着というのは原理的にあり得ないわけですが)、勝利者は競争相手から狙われる存在になります。それは多くの場合、不利になると言えます。その上で負ければ喪失のダメージを受けるわけです。我々のような種類の人間にとっては非常に分が悪い勝負です。

排他的な勝利の形でしか得られないもの、はたくさんあります。また、本当に1位を争っているのか、2位でも上位なら良いのではないか、など同じ競争に対しても異なるスタンスを取ることができる場合もあるでしょう。ゼロサムのシェア争いや、交渉事などは、はっきりとした勝敗とならない場合においてもこちらの勝ちが相手の負け、相手の負けがこちらの勝ちという意味で、近い性質があると言えそうです。競争が激しい、という言葉は、競争しているものの中身そのものよりも、こういう意味でのシビアな競合関係の強さを表現していることが多いと思います。

そういう排他的な勝利を求める競争は、私の様な悪意由来の負けず嫌いとは相性が悪いのではないか、と思います。悪意由来の負けず嫌いは必ずしも競争的なゲームそのものを不得手としているわけではないので、それが排他的なものではない様に飾り付けることで、うまく折り合いを付けられるのではないか。そのような語り直しに、価値があるのではないか、ということを最近よく考えています。まだ、まとまってないので、その詳細はいずれまたの機会にとっておくとして、いったんは勝利条件を排他的に設定することの副作用について以上の様にご紹介するにとどめたいと思います。例によって冗長な長文へのお付き合いありがとうございました。

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