問題発見(力)が大事だとは言うけれども
もう20年近く、「これからは与えられた問題を解く解決力よりも、新しい問題を見つけてくる問題発見力が大切だ」というような言説を見てきているように思います。確かにそのほんの少し前、ちょうど私が就職活動をしていた頃には、一瞬、「論理的思考力」だとか「クリティカルシンキング」だとか言う言葉がもてはやされた時期がありました。私はその頃にコンサルティングファームに就職しましたが、論理的思考力が大事とは言っても、あくまで仕事に役に立つ範囲のことであって、大学時代までに培った「実生活を離れたレベルまでの理屈っぽさ」は特に求められてはいないのだな、と思った記憶があります。そもそも、世の中の人は理屈っぽさを愛しているわけではないので、論理的思考力を手放しで賛美するなんていうことは不自然なのです。実際、就職直後の頃に書店に並んでいた本にも「問題発見」の文字が躍っていました。(特定の書籍を例示すると話がむしろぼやける気がしますが、『問題解決プロフェッショナル』の続編『問題発見プロフェッショナル』の発刊が2001年です)
「論理的思考力」「コンサルティング」「問題解決能力」「ロジカルシンキング」などは、やんわりと嫌われていて、手放しで賛美されるようなものではない、という気がします。(似たような別の話題として、理数系の軽視、なんてことも話題になりますが、実際には別に軽視はしていなくて、同じ様に嫌われていて、というか、警戒されていて、手放しでは賛美してはいけないことになっている、と思います)
問題発見賛美の傾向と近い物に、デザインシンキングのブームもありました。なんとなく温かみがある。そんなわけで、この20年、問題解決能力はなんとなく克服されるべきオワコンとしての地位にあり続けた、と思うわけです。(いや、こんなのはある種の僻みであって、社会人が持つべき技能としても認識されていたではないか、というご批判もあると思います。そして、それもまた本当であるとも思ってはいます)
問題発見を賛美する人達はちゃんと問題解決について考えていたのか?
具体例を出してしまったのは本当に失敗でした。(問題発見プロフェッショナルの場合は、問題解決プロフェッショナルを書いた人なので当然じっくりと考えていたでしょうし、そちらの新版も後に出ています)
典型的な問題発見賛美の構成はこんな感じです。現代は予測不可能な時代である。予め設定された(与えられた)問題を解いたとしても、その答えはあっという間に陳腐化し、その価値を失ってしまう。だから、問題を解決する力にはそれ程意味がなくなっている。また、解決能力自体も陳腐化しているので、その分だけ新しい問題を発見する力の方が大事になってきている。
例えば、ウォークマンのような音楽プレイヤーの市場において、機能や品質、コストなどを向上させるという既存の問題を解決するのではなく、別の問題を設定したことでiPodは成功した、なんていうストーリーが語られたりするわけです。
つまり、これまで設定していた問題をそのまま解決するのではなく、より上位の問題(顧客のそもそものニーズ)に遡って、それを解く、ということで従来の問題に対する解決の努力が無効化されるケースがある、ということを示しています。これが問題発見 > 問題解決の構図の端緒であると思いますが、これは厳密には 上位の問題の発見 > 下位の問題の解決 ということなのでフェアな比較ではないとも言えます。
そもそも、というのであれば、そもそも、問題解決という言葉をわざわざ持ち出すくらいに複雑で難しい問題を解決しようとする場合、問題を細かい小問題に分割してアプローチしてみるとか、それで駄目なら問題の分け方を考え直すとか、それでも駄目なら問題の捉え方自体を疑うことで上位の問題に立ち返って捉え方を再検討する、なんてことは日常茶飯事として行われているはずのことのはずです。つまり、そういう意味での問題発見という行為は問題解決という大きな営みの中の一部として元々存在していたのではないでしょうか。
良い問題を発見するという問題
高校生向けの探究の授業のお手伝いでも問題になるのが、「問い」の設定というフェーズで、結局どの問いがより良い問いなのかというメタレベルの問題の答えが欲しくなってしまう、という構造です。問題発見が問題解決とは別物だ、としてしまうと、この段階が苦しくなる。(ちょっとややこしいのですが、「答え」より「問い」が大事というのは、それはそうだと思うんですよね。行為としての探究を抜きにして答えだけを持ってくるのと、問いから出発して自分で到達した答えとは意味づけが異なるので。古のエンジニアは、これを「ソースからビルドするかバイナリだけ持ってくるか」と言ったりしましたが、そう言ってしまうと逆に技術で解決できそうな雰囲気になっちゃいますね)
問題を与えるって難しくないですか?
そもそも、という言い回しがどうしても多くなってしまいますが、「予め与えられた問題」という言い方にも問題があります。難しい問題というのは、問題をどの様な言葉で表現し、それを関係者のそれぞれがどのように解釈するか、にも幅があるわけです。固定的な、誤解の余地が一切無い、「与えられた問題」という存在には現実味がありません。その問題を記述する言葉の一つ一つの定義やその文脈に応じていくらでもゆらぐ余地があり、問題解決者はそれを確認したり疑ったり見直しを迫ったりする責任も負うことが多いはずです。
一方で問題発見という取り組みを真剣に考えようとする場合でも、それが解ける問題なのか、解くことでどのようなメリットがどの程度見込めるのか、そのリスクの構造はどうなっているのか、などは小問題への分解とその一部の解決が求められます。それはまさに狭い意味での問題解決と言えそうです。
褒めやすい言葉なので、問題解決より問題発見! と言いたくなる気持ちもわからないではないのですが、それによって求められる行動の像がぼやけてしまっては台無しではないかと思います。(何かを褒めるために何かを下げる必要はない、って、今風のことを書きかけましたが、そもそもこの記事自体が問題発見賛美者に対する苦言という体裁になっちゃってますよね……)