(Re:)意識の高低は、視座・実力・目標の3つの軸で整理されるべきだ。
この記事は、マスター著の別記事に対するアンサー的な位置づけのものです。
上記の記事はいわば「実力実在主義」ともいうべき立ち場から書かれているように思われます。つまり、個人に内在する「実力」なる独立パラメータのようなものが存在する、という考え方です。(あくまで表現のされ方の問題ですので、著者がこのテクストを離れたところでそのような信念を持っているかどうかはわかりません)
一般にイメージされているであろう目標と実力の二項対立的な構造に、視座という新しい因子を持ち込む上では議論の単純化がどうしても必要だったわけですが、その導入は元記事で果たせたものとして、ここではもう少し込み入った話を展開したいと思います。
客観的実力
果たして本当に「実力」というものはそのように客観的に語れる対象として存在するのでしょうか?
仮に実力とおぼしき値があったとして、その値は環境に依存しているか、あるいは環境(どの領域の能力をどういう条件でどの程度発揮できるか、など)に応じて見え方がかわる多次元量になってしまうのではないか。環境依存ということは計測方法に依存して値が変わるということではないか。そのようなブレを生じるものを客観的実在と認めて良いのか。という疑問が沸きます。
一方で、種々の計測方法や計測の試行毎に結果にブレを生じるとしても、それはある中心を持った分布として現れるはずで、それをもって実力と見なすことは可能なのではないか、という再反論もすぐに思い付きます。
以上を踏まえて現時点で言えることは、実力というものは客観的に存在するかどうかはわからないが、あるとすればそれは多様な観察の中から浮かび上がるようななにかである、ということぐらいと言えそうです。
しかし、いかに理論的根拠が曖昧であろうとも、高い実力という概念は魅力的であり、できればそれを持ちたいし、それが多様な観察の中から浮かぶ何かであるとするならば、他人からも持っていると見られたい、というのが我々凡人の偽らざる欲求というものです。多様な観察を多様な人々からの評価と捉えれば、他人から認められる実力こそが実力であるとも言えるわけです。
実力主義者たちのメタゲーム
さて、ここからは多人数プレイです。他人の実力は外から観察できるものでしょうか? 1人の人間が別の人間の客観的実力を簡単に見抜くことはできません。しかし、目標は(嘘や誇張はありえますが)本人が語りさえすれば、少なくともその外向き公開バージョンを知ることはできそうです。では、視座はどうでしょうか?
実は視座こそがもっとも簡単に推測可能な要素だと言えます。その人が種々のものに下す評価を見て、自分が付けている点数より高ければ低い視座を、低ければ高い視座を持っていると想定されるからです。もちろん、評価の物差しは多様ですし対象によっても異なります。(○○に関してはうるさいよ、的な専門性に繋がる偏りは誰にでもあります)。しかし、色々な状況での評価の例を並べていけばここでも視座の高低は「浮かび上がり」ます。我々は自然にこの想定をするなかで相手の価値観を理解しようとする生き物です。
当然このような性質が多くの人に共通のものだとすると、これをハックしようというモチベーションが生まれます。元記事の内容を思い出して下さい。高い視座は低い実力評価に繋がります。ということは、視座が高い人の自己評価は過小評価であると見なして差し引くことで正しい値に近い結果を得ることができます。また反対に低い視座は自己の過大評価のサインです。視座が低い人の自分語りは差し引いて聞かれることになります。そのため、もし高い実力評価が欲しいなら視座が高いと思われることは得であるということになります。
うざい高視座アピール
そこでやたらと視座の高さをアピールしてしまうアンチパターンが生じてきます。やたらと人気のコンテンツを腐してみたり、芸能人を不細工呼ばわりしてしまう残念な人達は、自分の視座の高さを印象付けたいわけです。しかし、これは本来的には他人の評価軸を操る行為です。操られて嬉しいと思う人は稀ですし、「こいつなら操れる」と評価されていると感じて喜ぶ人はもっと珍しいでしょう。他人から寄せられる視座の高さ推定へのアピールは巧妙に行わねばなりません。
そして意識高い系の話へ戻る
この視座コントロールの視点を考慮に入れると、意識高い系を馬鹿にする、馬鹿にする奴をさらに馬鹿にする、というマウンティング合戦も、あくまで実力というものをシビアに見ている自分をアピールしていたり、若年者に寛大な姿勢を示すことで評価者の立場の安定化を図るなどの意図を重ねて評価する必要が出てきます。評価って難しいですね。