見出し画像

コロナウィルスというテスト

ああ、これは、テストなんだ。

このしばらくの間に、何度も、何度も、自分の心に浮かんだことである。

ウィルスは、人間の人種や宗教や国籍とは関係なく、自由に旅をする。そして、これに対する反応は、おそるべきレベルで違う。いとも簡単に人から人へと伝染し、あっという間に世界の隅々まで広がったウィルスという目に見えない敵を与えられて、さあ、あなたはどうしますか?と問われている。

だからテストなのだ。試練と言い換えてもいいし、チャレンジと言ってもいい。ローリング・プレイング・ゲームのようでもある。与えられた情報をもとに、自分がどう行動するべきかを考えないといけない。

文明から離れて、山奥の小屋にこもって2週間と1日が経つ。最初の頃、アメリカ政府やニューヨーク市などの自治体がロックダウンに抵抗したのは、経済的なダメージを回避して、都市機能を守ろうとしたからだ。ところが、そのポイントを過ぎたら、「これは多くの人の命に関わることなのである」というコンセンサスが急に広がった。今、最優先事項になっているのは、経済を回すことでも、失業者の数を減らすことでもない、できるだけ多くの人間のサバイバルである。それができる状況を作るまでは、不急不要の経済活動は、お預け、なぜなら、それをしなかったら、感染者が倍々で増えて、今までの死亡者数がかわいく見えるほどの大惨事につながってしまうから、というのがニューヨークの空気感である。

周りを見回してみると、医療や外食(テイクアウト)、スーパーマーケットなどで働いていいない人間は、みんな真面目にロックダウンに参加している。「自分が感染者であるかのように行動する。手を洗い、無責任にものに触らない、必要なとき以外は外に出ない。なぜなら、ハイリスクの老人や既往症を持つ人たちに感染させてしまうと困るから」が責任ある大人としてのノームになった。「エッセンシャル(必須)」とみなされないビジネスは、すべて物理的な営業を停止した。デリバリーの類は、人間同士の接触を避ける形で、ドアの外に置いてもらうなどの方法で行われている。食料品店は、店内の人数を制限して行われ、列をなす人間たちは、ひとりひとりの間に2メートルの間隔を置いて並んでいる。普段個人主義の、こんな混乱のさなかに、統率の取れた、コミュニティ的行動がとれるとは!

余談ではあるが、私は、今、「ハイリスク」とみなされる免疫系の持病を持つ人と一緒に暮らしている。最近、同じ年の同じ疾患を持つ友人が、インフルエンザからの肺炎で死んだ。コロナではなかったと言われているが、インフルエンザによって、肺炎が機能しなくなったという意味では起きたことは同じだ。命の脆さが、急に現実度を増して迫ってくる。だから、外の世界に出ることをやめた。私は大丈夫、という気持ちが、誰かをリスクに晒すことがある、という事実と、初めて真剣に向き合った。

私がつい3週間ほど前までいた日本では、どうやらムードがまったく違うらしい。ソーシャルをのぞくと、普通に飲み歩いたり、お花見にいったり、めちゃくちゃ近い距離感で写真を撮ったりする人たちの姿が溢れ出てくる。オンラインを伝わって得られる情報だけ見ていると、Twitterあたりには、警鐘を鳴らすポストががんがん出ているわりには、インスタグラムなどを見ると、コロナウィルス問題はもはや過去のことになっているのではないかと心配になるレベルだ。

日本はさておき、今、ニューヨークやアメリカの都会のロックダウンは、楽観的に見て45日、リーズナブルに見て3ヶ月、最悪のケースは半年、などと言われている。

それがわかったときから、この長い時間を、コロナから自分や自分のまわりの人を守りながら、発狂せずにサバイブするにはどうすればいいかについて考えている。そして、願わくば、この危機が終わったときに、さらにパワーアップした存在になるために、自分の行動規範を決めておこう。それを、ここにまとめておく。


ここから先は

3,438字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?